『日本書紀』の皇統系図は疑いなく史実である

戦前は『日本書紀』に登場する、すべての天皇の名を子どもたちは覚えさせられました。

ところが、現在の教科書では、推古天皇以前については信用できないとして、仁徳天皇の名が大仙古墳(伝仁徳天皇陵)という形で一部の教科書に出ているだけです。

▲大仙古墳(伝仁徳天皇陵) 出典:PIXTA 

しかし『日本書紀』は、奈良時代の720年に完成しましたが『帝紀』『旧辞』などがすでに編纂されていたといいますし、豪族が持っている文書も多かったようで、何もないところから文書化されたのではありません。

荒唐無稽どころか、古代の帝王の長すぎる寿命を補正し、父子の年齢差を『日本書紀』の記述から大まかに推定し、中国などの史書や好太王碑など考古学資料も参考にすると、実年代も矛盾なく特定できるのです。

中国の史書で、5世紀の「倭の五王」による使節派遣の年が特定でき、倭王讃(仁徳天皇か)の崩御は430年代あたりです。また、大和石上(いそのかみ)神宮の七支刀(しちしとう)は、百済王が神功皇太后に贈ったもので、泰和4年(369年か)と思われる銘があります。

新羅の正史『三国史記』には、346年に倭人による首都金城包囲が書かれており、これが神功皇太后の遠征と応神天皇誕生の年でしょうから、逆算すれば歴代天皇の生誕年と大和朝廷の統一過程は、大和統一が240年、吉備や出雲を支配下に置いたのが260年、ヤマトタケルの活躍が310年前後、神武天皇の建国は系図がそのまま正しいなら紀元前後。もし、実際には兄弟での継承もあるはずとみるなら2世紀初頭でしょう(別表)。

▲古代史の推定実年代 (『歴史の定説100の嘘と誤解』より)

もし『日本書紀』の内容の辻褄が合わないなら、怪しいといっていいのですが、何もおかしなことは書いてないとすれば、確定的ではないにせよ、基本的には信用すべきと考え、私は『本当は謎がない「古代史」』(SB新書)という本にも書いています。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。