「クランチ」には「土壇場」という意味がある。起業家、作家、アスリート、アイドル……各界の第一線で活躍するアノ人は、自分自身の「土壇場」でどう格闘し、現在の活躍につなげていったのか。ホームグラウンドの赤羽で話を聞くことができたのは、『東京都北区赤羽』の作者として知られる清野とおるさん。

半年で打ち切りになった最初の週刊誌連載

ベストセラー『東京都北区赤羽』の後にも、ドラマ化もされた『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』や直近の『東京怪奇酒』など、コンスタントに話題作を発表し、現在ギャグ漫画家として確固たる地位を築いている清野さん。

しかし『北区赤羽』以前は壁にぶつかり、もがいていた。それは週刊誌連載の壁だ。

高校3年生時に『ヤングマガジン』でデビュー、その3年後から『週刊ヤングジャンプ』で連載をスタートさせた。しかしこの週1ペースでの連載は体力的にも精神的も、想像を絶するハードさだったという。

「漫画を描くって気力だけでなく、体力もいるんです。10代のころ、僕は肉体労働系のバイトも結構していたんですけど、それよりも漫画の方が断然きつかったですね。身体と同時に心も悲鳴を上げはじめていてこの疲労感はなんなんだ?と」

最初の連載は半年で打ち切りとなった。

「いま振り返ると半年で打ち切られてむしろよかったなと思います。あんな状態で1年続いていたらもう自滅してました。その後漫画も描いてなかったでしょう」

2002年からは『ハラハラドキドキ』という作品でふたたび連載が『週刊ヤングジャンプ』誌上でスタートした。しかしこれも8ヶ月ほどで打ち切りとなる。当時は何が足りなかったのか。

「いやもう全部ですよ。絵柄、ストーリー……いま見たらこんなの受けるわけないじゃん、というものを描いてました。まあ逆に攻めの姿勢だけはあったかもしれないですね。『ハラハラドキドキ』は最終話で主人公を全部殺してみたり。あの時は人気がとれないのは、自分のせいだけじゃなくてキャラクターにも責任の一端があると思って、漫画の中で自殺させて責任を取らせたんですよ」

清野作品に通底する、清野さん自身の“露悪性”“狂気性”が当時は強すぎたのかもしれない。

結果的に打ち切りは、その後の清野さんの創作活動のモチベーションになった。「打ち切りにした編集者たちをいつか見返したい」という思いで、次の作品を描いていった。ちなみに『ハラハラドキドキ』の打ち切りを告げられた場所は、清野さんにとって初心に立ち返れる場所として大切にしているという。

「志村坂上にサイゼリアがあって、そこで担当さんから『残念なお知らせがあるんだけど…』と切り出されました。

今でも実家に帰るたびにそこに行って、打ち切り宣告をくらった席に座りつつ、100円のグラスワインなんぞをチビチビと飲むんです。そこはぼくにとってのセーブポイントで、一瞬であの時代に戻れる場所。そしてまた新しい気持ちで作品を描くことができるんです。

あ、これだけは声高に言っておかないとですが、今となっては当時のヤンマガやヤンジャンの編集さんたちに感謝しまくりですからね(笑)。あんな未熟な僕の担当についてくれて、連載までさせてくれて。そんなのもう、ありえないことですよ」