卑弥呼は日本の女王とはいえない

邪馬台国が畿内にあったという説は、いくつもの大胆な論理の飛躍を必要としていると思います。『魏志倭人伝』には、対馬や壱岐を経由して九州に至ったあと、末盧(まつら)国(佐賀県唐津市あたり)、伊都国(福岡市の西にある糸島市付近)、奴国(福岡市付近)を経て不弥国(不明だが飯塚市あたりか)とあるのですが、そのあとが曖昧で、方角は南だが距離から言うと畿内あたりになってしまうと解釈する人もいます。

しかし『魏志倭人伝』には、帯方郡から邪馬台国までの距離が書いてあり、そこから、不弥(ふみ)国までの数字を引くと100キロくらいしか残りません。ですから、距離についての『魏志倭人伝』の記述は混乱しており、畿内有力の根拠にはまったくなりません。

大きな方墳を造成したということから、畿内にその時代の前方後円墳が多いので、それではないかというのですが『魏志倭人伝』に書かれている数字が正しいかどうかもわかりません。しかも、この墓についての記述は実際に見たのでなく伝聞です。

不弥国から先は曖昧な記述しかないので、邪馬台国に使者は行かなかった公算が高そうです。卑弥呼は人に会わないので無駄と断念した可能性があります。卑弥呼という名も、敵対していた狗奴(くぬ)国王が「卑弥弓呼(ひみここ)」なのですから一般名詞ではないでしょうか。

畿内説にこだわる人は、中国に使者を派遣していた女王国が、当時の日本列島で一番栄えていたクニであるべきだと思い込んでいるようですが、九州で卑弥呼が活躍しているころに、大和はもっと栄えていたとしてもなんの不自然さもありません。

そして、先に推定した大和朝廷発展の実年代と重ね合わせるとどうなるかです。248年ごろに卑弥呼は死んだようで、その後、卑弥呼の宗女(養女の可能性もある)である「壹與(いよ)」が266年に魏を滅ぼした西晋に使いを出し、それっきりで消息が途絶えました。

大和朝廷の統一過程と重ね合わせると、壹與が女王だった時期が崇神天皇の在世中あたりです。そして、大和朝廷の勢力が筑紫地方に伸びてきたのは、西暦340年代ですから、その1世紀ほど前に卑弥呼は死んでおり、邪馬台国も最後に中国へ使いを送ったあと滅亡していた可能性が高そうで、大和朝廷との接触はありえないのです。

九州のどこかはわかりませんが、不弥国との距離感からすれば、筑後とか豊後・豊前あたりが自然です。豊前に京都郡、筑後には山門郡がありますし、宇佐とかのちに斉明天皇の宮があった朝倉なども有力だし、中国地方までなら可能性としてはあるでしょう。

▲邪馬台国・卑弥呼の彫刻(弥生文化大阪府立弥生博物館:蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。