いまやデジタルアーカイブの時代になっており、文書を捨てる理由がほとんど無くなっているが、今回のコロナ禍で浮き彫りになった公文書を巡る問題は、明治初年の岩倉使節団から続いている慣例だった。決定的な隠蔽体質により現在進行形で失敗を繰り返している日本政府の愚行を、憲政史研究家の倉山満氏が斬る。
※本記事は、倉山満:著『救国のアーカイブ』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
日本の公文書管理の致命的な問題点
日本のアーカイブでは、最後の結論さえ残せばいい、という考え方が支配的です。この考え方が、いかに間違っているか。
2020年以来、新型コロナウイルス感染に関する対応については、政府が多くの重要な決定をしています。各方面から、それらの決定に関する会議の議事録の提出を求められていますが、なかなか実現しません。官僚のアーカイブ抜きの管理行政は、明治初年の岩倉使節団以来の慣例でもあります。官僚は途中経過の議論を見られたくないのです。
そして、最終的な結論しか残さないという姿勢は、官僚の無謬性の原則に起因します。
官僚の最終的な判断に間違いはない、との原則です。官僚に間違いがあると、行政への信頼を損なうと本気で考えているのです。このような体質は戦前からです。
官僚は、頭の良さにかけては日本を代表する人たちです。勉強ができるので、残された紙、つまり文書に書かれていることには優れた整合性があります。官僚が公表した政府の文書だけを読んで矛盾を発見できるのは、よほどの人です。
今回のコロナ対策にしても、たとえ失敗ではないかと指摘されても、そのときには予見可能性がなかった、という言い訳ができるように作ってあります。与えられた情報で最善の判断をしたから、批判されるいわれはない、と言い訳可能な文書を作れる人が優秀な官僚とされます。
アーカイブで考える基準は歴史的に貴重か否か
文書とは、過去に間違えたから次に活かそうという目的を持つものです。しかし、もっぱら結論だけを見せられるのが常態で、我々は完璧だった、失敗したとしても予見可能性はなかった、天変地異みたいなものだ、ということにされると、同じことが繰り返されます。現にコロナ禍では、同じような失敗を何度も繰り返しています。
では、優秀な官僚だらけになると、どうなるか。国が滅びます。当たり前でしょう。どんな失敗も、完璧な言い訳で乗り切られてしまうのですから、反省などできるはずがありません。もし言い訳不能の失敗を追及されたら、責任者の官僚は人生が終わりです。
だから、誰も責任を追及しない。別に官僚個人の責任など追及できなくてよいのですが、失敗を反省できないのが困るのです。だから、ある文書に現れる政策が成功か失敗か以前に、どういう試行錯誤を行ったのか。その過程が検証できるようにしておかねばならないのです。
だから、途中経過も残される必要があります。特に議事録は、どういう試行錯誤が繰り返されたのかの記録です。どのような失敗をしたのか、それも含めて記録しておかなければ、過去を未来の政策決定に活かすことができません。結論だけを見せられても困るし、いわんや、その結論を改ざんするというのは論外である、とするのがアーカイブの考え方です。
それでは全部残すのか、という議論になります。確かに、紙の時代には、なかなかできないことでした。しかし、今はデジタルアーカイブの時代になっており、捨てる理由がほとんど無くなっています。サーバーなりUSBなりに保存すればいいので、今や捨てるという発想が不要なのです。逆に、整理の重要性が高まっています。
かつては「行政機関で作成された文書は、すべて捨てるな!」と主張する学者に対し「下っ端が提出した文書まで残せと言うのか?」と一蹴した財務官僚がいました。名は秘しますが、のちに内閣官房副長官補や日本郵政社長にまで出世した人です。紙の時代であれば保存も大変なので、そう言いたい気持ちはわかりますが、今や完全に時代遅れです。
最近は、会議の記録を書記記録のかたちで残してくれ、ということが言われるようになりました。つまり、限りなく書き起こしに近いような形で、言い間違えも含めて正確に残してくれとの要望が強いです。
私が「西浦博士のニコニコ動画」を残せと言っているのは、攻撃する為ではありません。責任の所在を明確にする証拠にすべきだ、と言っているだけです。西浦教授の真意と全体像を示す文書を残せと言っている訳ですから、あえて言うならば、擁護する立場でしょうか。
アーカイブで考える基準は、歴史的に貴重か否かだけです。そして公文書管理においては「貴重か否か」の基準は「意思決定に関与したか否か」です。意思決定に関与した文書は、すべて貴重なのです