オカマ目線で見ていくと、常識だった日本史にまた新たな魅力が発見できる。自ら「オカマ」と名乗る山口志穂が語る「オカマのワクワク日本史」。男色が文化としてしっかり根付いたのは、平安時代のこと。その背景にはお坊さんが男色をしていた、という背景があるようです。

そして、男色は文化になった!

「一稚児二山王(いちちごにさんのう)」という言葉があります。

比叡山延暦寺(滋賀県)といえば、言わずと知れた伝教大師最澄の天台宗の総本山であり、現代の私たちが知っている浄土真宗や曹洞宗や日蓮宗などといった多くの宗派も、元を辿たどれば天台宗に行き着きます。そんな延暦寺を守護するとして崇敬されたのが、日吉社(ひえしゃ/山王)です。

鎌倉時代後期の『渓嵐拾葉集(けいらんしゅうようしゅう)』(1318年)には、最澄が初めて比叡山に登ったとき、まず童子(稚児)に会い、次に山王に出会った、とあります。

比叡山を守護する山王よりも、稚児の方が上と見なされたわけで、だから一稚児二山王と呼ばれるわけです。ここで重要なのは、この話が事実だったか否かではありません。こうした逸話が“信じられていた”という事実です。

こうした事情は当然、空海の真言宗も同様であり「高野六十那智八十」との言葉が残されています。高野は言わずと知れた真言宗金剛峯寺(こんごうぶじ)のある高野山のこと、那智とは那智の滝のある青岸渡寺(せいがんとじ)のことです(いずれも和歌山県)。「高野六十那智八十」とは、高野山には60歳、那智山には80歳を越えてもいまだに色っぽいお坊さんがいるということで、なぜ色っぽいかと言えば、もちろん男色をしているからです。

▲那智山青岸渡寺(和歌山県) 出典:PIXTA

男色が普通に文化的に定着していったのが、平安時代ということがおわかりいただけましたでしょうか。平安時代は、仏教が絶大な力を持っていた時代です。そのお坊さんたちがやっている男色は、ある種の市民権を得ていました。

その正当化に「美少年は仏の使い」とか、無茶を言うのはいかがなものかと思われるかもしれませんが、とにもかくにも他の国と違ってセックスにおおらかな日本が、男色にもおおらかとなりました。

仏教界から貴族社会へと降下していく男色文化

最澄の天台宗と空海の真言宗は、開宗当初から皇族・貴族と固く結び付いていました。

仏教界側は、皇族や貴族のために加持祈禱(かじきとう)し、皇族や貴族は、寺院への援助や荘園の寄進を行います。荘園とは、公権力の介入を排除できる私有地のことです。そうした両者の結び付きのなかで、仏教界の男色文化が貴族社会に降りてくるようになります。

平安時代の貴族にも男色はあります。在原業平(ありわらのなりひら)の『伊勢物語』や紫式部の『源氏物語』にも出てきます。そんな紫式部のパトロンが、摂関政治の全盛期の藤原道長です。

▲土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏 出典:ウィキメディア・コモンズ

摂関政治とは、藤原氏から娘を皇室に送って皇子を産ませ、その皇子を天皇とすることで、皇室の外戚(がいせき)として、天皇が幼少のときには摂政、成人すれば関白として、藤原氏が実権を握り続けるというシステムです。

道長の子の藤原頼通(よりみち)は、10円玉にもデザインされている宇治の平等院鳳凰堂を造ったことで有名で、そのために「宇治殿」と呼ばれました。そんな頼通にも「長季は宇治殿の若気也」と男色は記録されています(『古事談(こじだん)』)。

▲藤原頼通 出典:ウィキメディア・コモンズ

頼通の姉妹は皇子を産みましたが、頼通や弟の教通の娘たちは皇子を産むことができず、とうとう藤原氏を外戚に持たない第71代後三条天皇が即位なさると、藤原氏による摂関政治は崩れ去り、天皇親政が実現します。

▲白河院御影、白河法皇像(成菩提院御影) 出典:ウィキメディア・コモンズ

後三条天皇の跡を継いだ第72代白河天皇(1053~1129年。在位1072~1086年)も14年間の親政を行い、第73代堀河天皇(在位1087~1107年)に譲位後も、上皇、法皇(院)として第74代鳥羽天皇(在位1107~1123年)、第75代崇徳(すとく)天皇(在位1123〜1142年)と3代43年に渡って実権を握り続けました。院の御所で政治を執り行ったので、院政と呼ばれます。

この白河上皇の登場によって、男色が日本史を動かす重要なファクターとなって行きます。

※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。