樋口直房を寝返らせた竹中官兵衛のファインプレー

姉川の戦いは、小谷城の南を流れる川を挟んで、織田・徳川連合軍2万9000と、浅井・朝倉連合軍1万7000が激突した戦いでございます。

▲小谷城跡 出典:PIXTA

これだけの大軍で、しかも戦国屈指の強力な軍団同士の正面衝突というのは、そうたくさんはございませんから「戦国名勝負」のひとつとして、数々の武勇談に満ちております。

信長さまが、浅井家が寝返って朝倉側についたことを聞いたのが元亀元年(1570年)4月26日で、それから2か月後の6月28日のことでございました。信長おそるに足らずという空気が出てくる前に、藤吉郎たちを使って素早く準備を整え、動かれたのでございます。

蜂須賀小六さまなどの軍団を率いて、関ケ原を通り近江に入った藤吉郎も、国境に近い須川城を攻略したりもしました。そのときの最大の手柄は、番場宿に近い鎌苅城の堀秀村の家老である樋口直房さまを、旧知の竹中官兵衛さまが説得して寝返らせたことでございます。

佐和山城の磯野員昌さまは抵抗を続けられていましたが、京と美濃の街道は確保できたのでございます。信長さまは姉川を渡り、小谷城の近くにある虎御前山に陣を構えて、小谷城を攻めようとされました。

しかし、小谷城は堅固だったので、諦めて姉川の南側にある横山城を攻めることにされ、いったん退却されました。ですが、浅井軍団に襲いかかられ、しんがりでは討ち取られた織田方の武士が出ました。

さらに、浅井長政は山を降って横山城を救うべく南下したので、姉川を挟んで早朝から戦闘が開始されたのです。

一時は、織田軍の前面は破られ、少し後ろにいた藤吉郎たちも危ない目に遭いましたが、酒井忠次さまや榊原康政さまらの徳川軍の奮闘、横山城を囲んでいた西美濃三人衆の参戦などで押し返しているうちに、数で劣る浅井・朝倉連合軍に疲れが見え始め、午後2時頃には城へ引き揚げました。

激しい戦闘でございました。浅井・朝倉軍団には千数百人、織田・徳川軍団には八百人の亡くなった方が出たそうです。

中途半端な朝倉のせいでジリ貧の浅井家

このあと、織田勢は横山城を守っていた三田村左衛門〔平民宰相といわれる原敬の家は、三田村氏が改姓したもので、浅井滅亡後、讃岐高松藩生駒氏を経て盛岡藩士となった。俳優の三田村邦彦も一門〕を追い出し、ついで、佐和山城を攻めましたが、こちらは持ちこたえました。

結局、織田方は姉川の南側を占領して、佐和山城だけが浅井方に残るという形で膠着状態になりました。岐阜と京の連絡が確保できるようになった織田方にとっては、中程度の勝利でございました。

一方、浅井方にとっては、鉄砲の産地だった国友村も含めて領地の半分ほどを失う羽目になったのですから、信長さまを裏切って朝倉についたのは大失敗でございました。朝倉義景さまは、一族の朝倉景健さまを浅井方に派遣するに留められたのが、失敗した原因でございます。

▲姉川古戦場 出典:©RITSU / PIXTA

この後も、朝倉は味方してくれるものの、つねに中途半端という態度で、生きるか死ぬかの瀬戸際である浅井家にとっては、信長さまとの和解はできないが、かといって、じり貧が続くという状況に陥る原因になります。

横山城には、藤吉郎が城番として入ることになりました。これから、小谷落城まで3年間、藤吉郎は横山城を本拠にしながら、ときおり、岐阜に帰ってきたり、各地に転戦したり、京の奉行としての仕事も続けていたのです。

戦場の砦ですから、私たちがそちらに引っ越したわけではありませんが、こっそり出かけて手伝いをしたことはございます。