手塚治虫に才能を見出された女性漫画家のレジェンド水野英子さん。トキワ荘で唯一生活した女性漫画家に、故・石ノ森章太郎、故・赤塚不二夫と過ごした10代の思い出を語ってもらいました。
手塚治虫に見初められスカウト
――18歳で上京してトキワ荘に入居。もちろん紅一点です。どういった経緯だったのでしょうか?
「当時、私はまだ下関に住んでいて、カットの仕事やコマ漫画の仕事をいただいていました。1956年、16歳のときに『赤っ毛小馬(ポニー)』でデビューはしていましたが、そのときも下関です。そんな折りに編集者の丸山昭さんの提案で、石森(後の石ノ森章太郎)さんと赤塚(不二夫)さんとの合作の提案を受けたのです。そこで結成されたのがU-MIA。3人の頭文字を取った「MIA」に、ドイツ語っぽい「U」をつけているんですが、“ウーマイア”ってダジャレを込めただけです(笑)」
――いいですね(笑)。
「そこで生まれたのが『赤い火と黒かみ』。ただね、東京と山口で原稿を送ったり、また描いて送り返すという作業が大変手間がかかったんです。なんやかんやと、やりとりをしながら描かなきゃいけなかったのです。
それで、2作目の『星はかなしく』の製作が決まった際に、丸山さんから上京してくれとお知らせがありました。ちょうど、石森さんの真向かいの部屋が空いていたので、私の部屋として用意してくださったんです。
あの頃はまだ『少女マンガ』という言葉がなくて、『少女もの』『少年もの』というふうに呼ばれていた時代です。少年誌のほうは、活劇やなんかでだいぶ盛り上がってはいたんですけれど、少女誌は、発展途上中でした。
ところが、描き手は男性ばかりで圧倒的に足りなかった時代なんですよ。出版社は出版社で少女誌の描き手を多くつくりたい意向もあり、トキワ荘にも話がいったわけです。石森・赤塚さんの2人で合作の『いずみあすか』という名前で、もう何本かお仕事してらしたんですよ」
――初めて知りました。
「そこに私を加えたのがU・MIA。新しいことが大好きなおふたりなんで、それがいいということで、すぐ話がまとまって、私が入ることになったわけです。
石森さんがネーム構成、画面構成をやってくれて、そのあとは、少女ものだったこともあり、主人公の男女を私が描いて、石森さんがスペクタクルの場面とか、個性のある人物とか、そういうものを担当し、赤塚さんは背景や総まとめを役を果たしていました。
まさか、憧れのおふたりと一緒に仕事ができるなんて、本当に夢のような話。1958年の3月、トキワ荘での生活が始まったのです」
――当時から、合作という手法はよくあったのですか?
「いえ、あまりないことでしたね。絵を3人一緒にしても不自然じゃない人を選ばなければいけなかったわけで、もちろん気も合わなきゃいけないでしょうし。ただ、私たちは同じような趣味だったので、気が合ったのが幸いでした。
私が上京した3日目に、歓迎の意味だったと思うんですけれど、銀座のピカデリー劇場というロードショー劇場に連れてってくれたんですよ。石森さんのおごりだったと思います。赤塚さん、石森さん、私と3人で。『十戒』という、例の海が割れる大スペクタクルなモーゼの話。大変な大作でした」
――当時の映画といえば、娯楽の王道だと聞いたことがあります。
「ロードショー劇場というのは、“違う世界”へ連れて行くというような感じの場だったんですよ。床には赤いじゅうたん、天井にはシャンデリア、椅子はビロード張りみたいに、非常にゴージャス。田舎から出てきて3日目に大感激の一日でした。
私にとって映画は、お楽しみと同時に、仕事にも非常に参考になったんですよ。写真と違ってあらゆるものを全方向から見ることができる。写真だと一番かっこいい部分しか写していませんのでね。もちろんストーリーの組み立て方にも参考になりました。3人でしょっちゅう映画に行きました。
石森さんは音楽が好きで、当時は、なかなかなかった大きな2スピーカーのステレオを持ってらした。クラシックからポピュラー、映画音楽まで、いい音楽だったらなんでも聴くというような人でしたから、音楽をかけながら仕事するのがとっても楽しかったです」