現代人は「1日3食」が一般的。でも、江戸時代までは1日2食が普通でした。江戸の庶民の食生活を研究する江戸料理・文化研究家の車浮代氏によると、それが変わったのは明暦の大火がキッカケだったようです。復興作業に当たる労働者が「2食じゃもたねえ!」と言い出したのが始まりだったとか。

日本人が1日3回食事をするようになった諸説

江戸の人々が1日に3回食事をするようになったキッカケの一つは、なんと「火事」でした。

古来、日本人は1日2食が普通でした。戦国時代の武士など、体力を必要としていた一部の人たちは、体力をつけるために1日3食をとっていましたが、庶民は朝早く起きて、ひと仕事を終えたあとに朝食をとり、仕事の合間に遅い昼食をとって、日が暮れたら寝るという生活スタイルでした。

一方、公家たちは、お昼くらいに朝食を、夕方4時ごろに夕食をとっていました。時間帯こそ違いますが、身分の上下に関係なく、1日に2食が一般的でした。

この生活スタイルに変化が起き、一般庶民のあいだでも1日に3食とる食生活が定着していくのですが、その大きなキッカケとなったのが、明暦3(1567)年1月18日から20日にかけて江戸を襲った「明暦の大火」です。

江戸城本丸をはじめ、多くの武家屋敷、400町とも800町ともいわれる町屋が焼け落ち、死者は11万人に及んだともいわれています。当時の江戸の人口はおよそ30万人。死者数だけを見ても、被害の甚大さがわかります。

大火後、町の復興のために、日本各地から大工や左官など大勢の職人が呼び集められました。肉体労働に従事する彼らは、1日2食では体がもちません。そこで、正午過ぎにも食事をとるようになったのが、1日3食になったキッカケといわれています。

ただ、これはあくまでも一説。他の説によれば、戦国武士の1日3食の食生活が庶民に浸透していったのが、だいたい江戸中期、ということです。でも、発祥から浸透までに100年以上というのは、少々時間がかかり過ぎているようにも思います。

一方、物流がよくなり、照明油が広く出回るようになって、起きている時間が長くなったのも、1日3食になった大きな要因です。

▲起きている時間が長くなったから…も諸説のひとつ イメージ:motionkarma / PIXTA

夜なべ仕事や読書、夜遊びができるようになったため、当然、寝るのが遅くなり、1日の稼働時間も増えます。それによって、朝・昼・晩と3食とるスタイルが定着していきました。

現代、「健康のためには1日3食とることが大事」という人がいれば、「1日1食の小食が長生きの秘訣」という人もいて、迷うことも多いですが、日本人が1日3食とるようになったのは、「健康のため」というより、「大火が江戸の町を焼きつくし、照明油が普及したから」。そうとわかれば、あんまり細かなことに縛られず、自分にあったスタイルを選ぶのがよいように感じます。

一汁一菜は銀シャリをおなかいっぱい食べるため

江戸時代、燃料は貴重品でした。当然のことながら、今のように炊飯器もなければ、手軽に温められる電子レンジなどの電化製品もありません。竈(かまど)に火をおこすだけでも大変な作業でした。

しかも、江戸の庶民が暮らした長屋は、標準サイズで9尺2間。つまり、間口が9尺(2.7メートル)で、奥行きは2間(3.6メートル)という長さ。1軒につき6畳ほどしかありません。

ですから、台所もコンパクト。土間に2つ口の竈と、平たい木の箱に排水の穴と脚がついた小さな流し、その横に井戸から汲んできた水をためておく甕(かめ)を置いたら、もういっぱいです。

そんな台所では、ご飯を炊いて、味噌汁をつくる以外に、おかずをこしらえる余地はありません。七輪で外で魚を焼くくらいはしましたが、その七輪は長屋の2~3軒で1個を貸し回すのが普通でした。こうした事情もあり、日常の食事は手間暇をかけず、合理的においしく食べる方法が工夫され、発達していきました。

▲七輪は長屋で貸し回していたようです イメージ:nemar / PIXTA

ご飯を炊くのも1日に1回だけ。上方は昼に炊きましたが、江戸では朝に1日分をまとめて炊きました。料理をしてくれる女手のない独身男性は、近所のおかみさんに有料で自分の分も作ってくれるよう頼むか、なかには料理男子もいたことでしょう。

お釜で炊いたばかりのご飯は、それだけでご馳走ですから、朝は茶碗に大盛りによそって、そのまま食べました。献立は、ご飯のほかに熱々の味噌汁・漬物・納豆・煮豆などが定番。銀シャリをおいしく食べられて、味噌汁があって、漬物があれば、おかずはあれば食べるし、なければそれでいいと、さほどこだわらなかったようです。

保存性を高めるため、おかずや漬物は今より塩気が強かったので、一汁一菜でも十分ご飯が食べられたのです。

江戸の朝炊きが一般的になったのも、銀シャリのため。仕事に弁当を持っていく人が多かったからです。弁当の主役は白米でつくった握り飯。そのためにも、朝、炊きたてのふんわりとしたご飯が必要だったのです。

※本記事は、車浮代:著『江戸っ子の食養生』(ワニ・プラス:刊)より一部を抜粋編集したものです。