2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1987年の“リアルファイト”を再検証する!

「この二人が組んだら、勝てるヤツは誰もいなくなるだろう」

82年のタッグ結成当時、思わずそう感じてしまうほどの強さを全日本プロレスマットで見せていたのが、スタン・ハンセンとブルーザー・ブロディの“超獣コンビ”だ。

ともに身長190センチ、体重130キロを超えるスーパーヘビー級で、人気と実力を兼ね備えたトップレスラーである両者は、もともとアメリカ・ウエストテキサス州立大学アメリカンフットボール部の先輩・後輩同士(ブロディが3年上)。チームワークも抜群であり、この二人にかかれば、師匠格であるザ・ファンクス(ドリー・ファンクJr.&テリー・ファンク)も、日本のエースであるジャンボ鶴田&天龍源一郎もボロボロになるまで痛めつけられた。

未だ昭和のプロレスファンの間では“史上最強のタッグチーム”と呼ばれ、シングルプレイヤーとしても、それぞれが歴代最強外国人レスラーと評価されるハンセンとブロディ。そんな二人が敵と味方に分かれ、夢のタッグ対決を行ったのが、87年11月22日の後楽園ホールだった。

『‘87 世界最強タッグ決定リーグ戦』の公式戦として実現した、このスタン・ハンセン&テリー・ゴディvsブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカの一戦にファンは狂喜。結果的に二人の対決は、これが最初で最後となってしまったわけだが、「この対戦が実現したのは、本当の意味で“奇跡”だった」と、元『週刊ゴング』編集長の小佐野景浩は語る。

「実はこの前年から、ブロディは日本マット界から“永久追放”されていた。だから本来、二人の対決が日本で観られる可能性はなくなっていたし、ファンも半ば諦めていたんです」

新日本プロレス永久追放から全日本プロレスの救世主へ

ブロディは85年4月、新日本へ電撃移籍してアントニオ猪木と抗争を展開するが、同年12月に『IWGPタッグリーグ戦』決勝戦を試合当日にボイコットするなど、新日本ではトラブル続き。一度は関係を修復するも、86年11月に今度は来日が決まっていながらシリーズ開幕直前になって参戦を一方的にドタキャンし、ついに永久追放となってしまったのだ。

「ブロディが新日本を追放される1年前、85年12月に全日本と新日本の間で選手引き抜き防止協定というものが結ばれたんですよ。80年代前半は、両団体による引き抜き合戦が過熱していましたが、それが選手のファイトマネー高騰につながり団体経営を圧迫していたので、両団体の弁護士が間に入って、この選手は全日本側、この選手は新日本側と選手のリストを作った。そして、もし相手側のリストに入っている選手を引き抜いた場合、莫大な違約金を払うという協定をしっかり書面にして結んでいるんです。

だから85年末の時点で、新日側の選手となっていたブロディを、たとえ新日本が手放したとしても全日本は勝手に使うことはできない。そのため新日本を追放されたブロディは、事実上、全日本も含めた永久追放となっていたんです」

これによって、ブロディの試合はもう日本では見られなくなったはずだった。

「ところが、87年春に新日本は“掟破り”で、全日本に参戦していた長州力らの引き抜きを行なった。それによって、引き抜き防止協定はなし崩し的に無効になってしまい、全日本がブロディを使うことにも問題がなくなり、ブロディ自身も全日本参戦を熱望したことで、87年10月に復帰したんです」

長州らが大量離脱し、全日本がピンチに陥った中でのブロディ復帰は、全日ファンから“救世主”として大歓迎され、トラブルメーカーで永久追放されたはずだったブロディの人気は、逆にここから爆発したのだ。

「一度、新日本に行ったことで、ブロディの価値も上がっていたんですよ。以前はハンセンのコンビでは良かったけど、単独でシリーズのエース外国人として来た場合、お客を呼べるレスラーじゃなかった。それが新日本での猪木さんとの一連の試合があって、ブロディという存在がアップグレードされましたからね。全日本にとっては、結果的に新日本がブロディの名前を大きくして戻してくれたということになったんです」