ハンセンvsブロディは永遠の夢のカードに

ブロディは10月のシリーズで全日本復帰を果たすと、続く『最強タッグ』にも連続参戦が決定。ここで多くのファンは、ハンセンとブロディの超獣コンビ復活を予想したが、発表されたチーム編成は、ハンセン&ゴディとブロディ&カーネル・デビアース(開幕直前にジミー・スヌーカに変更)。超獣コンビを解体し、ハンセンvsブロディのタッグ初対決が実現するというビッグサプライズに、ファンの期待はさらに高まることとなったのだ。

「ここで超獣コンビを復活させなかったのは、全日本の総帥ジャイアント馬場さんがすでに先の展開を思い描いていたからだと思います。ちょうどこの年の夏に天龍革命が起こり、鶴田と天龍の鶴龍コンビも解散していたので、ハンセン、ブロディ、鶴田、天龍の4人がトップを争う、新しい構図を作りたいという思いがそこにはあった。もちろん、ハンセンvsブロディという夢の対決実現も、すでに見据えていたんでしょう」

そしてハンセン組とブロディ組の試合は、『最強タッグ』の開幕第2戦で早くも実現。プロレスの聖地・後楽園ホールは、凄まじい盛り上がりとなった。

「ハンセンとブロディが向かい合うだけでファンは興奮していたのに、試合の攻防もまた素晴らしかった。超大物同士のタッグ初対決だと、お互いに意識しすぎて、あまり試合で絡まなかったりすることも多いんですけど、この時はハンセンとブロディがいきなり先発しましたからね。期待以上のぶつかり合いを展開したことで、結果は両軍リングアウトの引き分けでしたけど、ファンからいっさい不満の声は上がりませんでしたから」

この試合によって来るべき初の一騎打ち、ハンセンvsブロディ夢のシングルマッチ実現への機運は一気に高まり、それは88年にいよいよ現実のものとなる――と思われた時、信じられない悲劇が起こってしまう。

88年7月16日、ブロディはプエルトリコのWWCというローカル団体に参戦中、同団体のマッチーメーカー兼レスラーのホセ・ゴンザレスとトラブルを起こす。そして控え室で口論の末、ブロディは腹部をナイフで刺され、翌17日、出血多量で帰らぬ人となってしまったのだ。

42歳という若さだった。

「この訃報を受けて、8月29日の日本武道館大会はブロディ追悼の『メモリアルナイト』として行なわれましたけど、実はこの8・29武道館こそ、馬場さんがハンセンvsブロディ初の一騎打ちを組もうとしていた大会だったんですよ。当初、この大会のメインイベントはファン投票で決めると発表されていたんです。投票となれば、ハンセンvsブロディが1位になることは最初からわかっていた上で、『ファンの声で超・夢のカードが実現』というかたちにしてね」

実際、7月上旬から募集したこのファン投票では、シングル部門でハンセンvsブロディがぶっちぎりの1位。タッグ部門でも1位がハンセン&ブロディvsロード・ウォリアーズだったが、それらすべてが永久に消滅してしまったのだ。

「ハンセンvsブロディのシングルマッチがあのまま実現していたら、プライドの高い二人のことだから、おそらく『鶴田vs天龍より、俺たちの試合のほうが上だというところを見せよう』としただろうから、すごい試合になっていたでしょうね。また、回を重ねるごとにレベルアップして、そこに鶴田と天龍も絡むことで、スケールの大きな“馬場プロレス”の完成形になっていたはずなんですよ。それだけに、ブロディの死はプロレス界にとって大きな損失でした」

ブロディが凶刃(きょうじん)に倒れることで、実現を目前にして永久に消滅してしまった超・夢のカード、ハンセンvsブロディ戦。

筆者は以前、ハンセンにインタビューした際に、ブロディ戦が幻で終わったことに対してのファンの無念の思いを、直接伝えたことがある。しかし、その時のハンセンの答えはこうだった。

「ブロディとの試合は、実現していたらファンも喜んでくれただろうし、興行的にも大成功したとは思う。しかし、夢は夢のまま、実現しなくて良かったんじゃないかな。実現しなかったからこそ、ファンは今でも私とブロディ、どちらがより強かったのか想像を膨らませることができる。ブロディが亡くなったのは本当に悲しいことだけど、私とブロディの試合が、ファンの心の中で今でも夢のカードとして生き続けているのなら、それは我々にとってとても嬉しいことだからね」

そう、ハンセンvsブロディは消滅したのではない。永遠の夢のカードとして、ファンの心の中で今も生き続けているのだ。

▲ハンセンとブロディの“超獣対決〟のド迫力そのものだった

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。