ユネスコ世界文化遺産「三内丸山」の六本柱
茂木 次に、こちらの写真を見てください。
田中:三内丸山(さんないまるやま)遺跡※2の六本柱と大型竪穴住居ですね。
※2.三内丸山遺跡:青森県青森市にある、縄文時代中期の大規模集落跡。1992年からの発掘調査で巨大な竪穴住居や六本柱建築が確認され、縄文時代のイメージを根本的に塗り替えた。大湯環状列石などと共に「北海道・北東北の縄文遺跡群」の一つとしてユネスコ世界文化遺産にも登録された。
茂木 あの立派な塔は何のためにつくられたかは謎なのですが、6つの柱の配置には秘密がありまして、太陽の方角と関係があるのです。3本の柱をつなげると冬至の日没、対角線ですと春分秋分の日没で、2本の柱の線の延長は夏至の日没の方角と重なります。これが偶然ということは、ないのではないでしょうか。
田中 まさに彼らが、太陽と共に生きた証ですね。
茂木 もしかすると、この「六本柱」は塔ではなく、ウッドサークルのように柱だけがむき出しに立っていた可能性もありますよね。諏訪大社には有名な御柱(おんばしら)祭がありますし、伊勢神宮の本殿床下には心御柱(しんのみはしら)という御神木が埋められています。樹木信仰と太陽信仰が宗教の起源では?……と私は思うのですが、いかがでしょうか。
田中 ほぼ賛成です。なぜかというと、やはり太陽崇拝という信仰が古代より人々の生活の中心で、これはエジプトもギリシャもみんな同じなのです。三内丸山のあの塔は、太陽崇拝のためのものであると私も思います。そして、あの塔は10塔以上はあったといいます。復元してあるものは1つだけですが、実際の遺跡では複数カ所で発見されているのです。
また、三内丸山の広場の中心には、100人は入るだろうという非常に大きな竪穴式住居が復元されていますが、あれももっと多数あった。少なくとも三内丸山の集落には600ほどの住居があったとされます。ところが、現在は数個の住居が立っているだけですね。ミニマムに復元されているのです。だから、今の三内丸山遺跡は本来の姿ではないことを、皆さんにはご認識していただきたいですね。
もちろん、三内丸山遺跡には2700年ほどの歴史がありますから、時代の変遷もあるので、同時代にどれだけ建っていたかは考慮しなければいけませんが。そういった意味で、まず我々は、縄文遺跡の見方から変えていかないといけません。
茂木 弥生時代(紀元前400年頃)の吉野ヶ里遺跡※3も復元されていますが、周囲を防壁と堀で囲まれ、物見櫓(ものみやぐら)が立っています。そういう観点から見ますと、三内丸山(紀元前3000年頃)には壁がないですよね。
※3.吉野ヶ里遺跡:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町にある、弥生時代の大規模な環濠(かんごう)集落跡で知られる。1986年からの発掘調査によって発見された。周囲を堀で固め、木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。墓からは戦死者と思われる首のない遺骨も発見されている。また、出土人骨からの調査では、在来の縄文人とは違った大陸からの渡来人が多かったとされる。
田中 そう、城壁がない。日本以外の古代文明の都市には必ず城壁があります。外敵から身を守るための壁です。壁がないことは、平和な日本の象徴といえるでしょう。
茂木 三内丸山遺跡のガイドさんは「あの六本柱建築は見張り台だ」と説明していました。考古学者は遺跡や遺物を徹底的に合理的、機能的に解釈しようとします。美的、宗教的に見ることは稀です。これら縄文遺跡が太陽信仰の証であるということが、考古学会では認められていないような感じがします。
田中 そうですね。三内丸山遺跡センターの岡田康博所長にも伺いましたが、はっきりとは答えなかった。「そうかもしれない」というぐらいのニュアンスでね。縄文時代の日本は戦争や争いがないのだから、見張り台なんて必要ないのです。まぁもちろん、天気や海の様子を見るためのものは考えられますが。
茂木 確固たる証拠や、書かれた文献がないと、なかなか学者は認めませんよね。
田中 だからこそ、他の国の似た形状のもの、精神的なもの、そういったものを“比較する”ことによって「これとこれは同じ意味なんだ」という学問があるわけです。
茂木 それが田中先生のおっしゃる「フォルモロジー」※4ですね。
田中 日本のことが“日本のなかだけ”でしか考えられていないことに、研究者は疑問を持つべきです。
※4.フォルモロジー(Formologie):形象学。美術史の学問の一つ。“人間がつくった「形」というものは、必ずある種の「意味」がある”という視点から、物や美術作品を解析する学問のこと。田中英道氏の専門とする分野。