はるか昔、1万年間にわたり縄文人はどんな生活をしていたのでしょうか? 縄文時代は、今よりも大変に温暖な気候で動植物も良く育ち、豊かで平和な社会が東日本を中心に築かれていたといわれます。太陽にありがたみを感じ、自然の恵みに感謝を捧げる……まさに「太陽信仰」のもとで人々は暮らしていました。歴史家の田中英道氏(東北大学名誉教授)と、世界史講師の茂木誠氏(駿台予備校/N予備校)による古代史談義から、日本文化のルーツに思いを巡らせてみましょう。
※本記事は、田中英道×茂木誠:著『日本とユダヤの古代史&世界史 -縄文・神話から続く日本建国の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
縄文から続く「神を食べる」ということ
茂木 じつは私、この10年ぐらい、縄文人と同じ食事スタイルなんです(笑)。ほとんど米や小麦は食べずに、ナッツなどの木の実や、お肉とお魚ばかり食べています。あと豆腐や納豆も大好きです。すごく元気になります。
田中 面白いことやっていますね(笑)。縄文人の主食だったという栗もいっぱい食べたほうがいいですよ。
茂木 「日本人は2000年間、ずっと米を食べているのだから、西洋の食事は合わない。だから、米をもっと食べよう」という人がいますけど、私に言わせたら1万5000年前から我々は木の実を食べているのだから、むしろそっちが大事ではないかと(笑)。
田中 縄文人は食も素晴らしいのですよ。遺跡から出土する骨でわかりますが、肉や魚の種類が多いこと。山菜などのキノコや野草も豊富。それから一番重要なのは貝ですね。貝塚はゴミ捨て場だと思っている人が多いだろうけど、そうじゃない。
茂木 貝塚は食生活の記録ですね。
田中 それだけではありません。もっと神聖な場所なのです。食べるときにお箸をお膳に揃えて置くでしょう? お膳の前に置かれたお箸はいうなれば“こちら側と向こう側の結界”なのです。食べるものは神さまだから向こう側にある。だから「いただきます」と拝んでから食べるのです。
茂木 縄文人もそうしていたと想像します。貝殻などは捨てるけれども、それもまた神ですからね。
田中 丁寧にあちら側にお返しするわけです。自然が「神」なのだから、自然が与えてくれたものは全て「神」なのです。日本の神道の基本は太陽信仰であり、山信仰であり、木信仰であり、岩信仰である……そういうものが全部「神」なのです。ですから、必ず縄を張って結界をつくる。食べるものは自然の恵みだから「神」そのものです。そうすると「神を食べる」ということになる。
だから、我々はありがたいと思って、拝んでから食べるのです。貝塚をよく見てみると、綺麗な層になっています。ただのゴミ捨て場じゃないことがわかりますよ。貝塚ひとつとっても「日本人というのはすごいな」とわかりますね。良いことだと思うと、それをずっと続けるのです。
遺跡から発掘された太陽信仰と樹木信仰の痕跡
田中 縄文の集落は、その多くが台地の端にありますが、まず真ん中に広場をつくります。そこでお祭りをしたり、また、お墓も中央につくります。そして、その周りを囲むように竪穴式住居をつくり、その外側に貝塚をつくっています。その形状には「自然から頂いたものを自然にお返しする」という意味合いがあると私は思います。常に自然と共存しているという形が見てとれるのです。
茂木 秋田県にある有名なストーンサークル「大湯(おおゆ)環状列石」※1という遺跡に行ってきたのですが、列石に囲まれた広場そのものが、まさに祭りの場で、その外側に住居跡が見つかっています。先生、こちらの写真をご覧になっていただけますか。
※1.大湯環状列石:秋田県鹿角市大湯地区の高台にある縄文後期の遺跡。直径40メートルほどのストーンサークルが二つ、東西に並ぶ。
田中 これは……ウッドサークルですか…?
茂木 その通りです。ストーンサークルの西側で見つかったものです。丸太は腐ってしまいますが、丸太が立っていた穴が発見されたので、そこから復元したものです。「五本柱建物」ともいわれています。ウッドサークルは、能登半島の真脇遺跡、金沢市のチカモリ遺跡など、日本海側の縄文遺跡で何カ所か確認されているのです。
田中 イギリスのストーンヘンジに形が似ていますね。
茂木 はい。ストーンヘンジも巨石が並べられる前は、丸太が並んでいたことが発掘で明らかになっています。