小野寺信(まこと)、樋口季一郎、藤原岩市――世界から称賛され、恐れられた3人の帝国陸軍軍人を通じて、大日本帝国のインテリジェンスの実像に迫る話題の新刊『至誠のインテリジェンス 世界が賞賛した帝国陸軍の奇跡』(小社刊)。その出版を記念して、著者の岡部伸氏と樋口季一郎の孫・樋口隆一氏(指揮者、明治学院大学名誉教授)の特別対談をお送りします。

ユダヤ人難民救済の話は家族にも語らなかった

岡部 リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝が、ナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られています。杉原が救ったとされるユダヤ人は約6000人、本家のオスカー・シンドラーは約1200人です。

数字については諸説ありますが、ユダヤ人側の発表では、樋口中将は、彼らを優に上回る2万人ものユダヤ人を救出したとしています。しかも、杉原がいわゆる「命のビザ(通過査証)」を出す2年も前に。

▲杉原千畝 出典:ウィキメディア・コモンズ

外交官だった杉原千畝は、早くからその名が世界に知られていましたが、樋口季一郎は“悪名高き日本軍”の軍人ということもあってか、長らくその功績が注目されてきませんでした。しかし、ようやく最近になって、グローバルなレベルで樋口中将の再評価の動きが加速しています。これは日本人として非常に誇らしいことだと思います。

樋口先生は、祖父である樋口中将から、ユダヤ人難民の救出のお話を生前にお聞きしていたのでしょうか?

樋口 樋口季一郎は最初、家族にもユダヤ人救出の件を伏せていました。それに「おじいちゃんに戦前の話はしない」というのが、なんとなく家の中の“暗黙の了解”だったんです。おじいちゃんも困っちゃうからね(笑)。だから、父や母、伯父に伯母、いとこたちも“樋口季一郎”については知ってはいるけれど、肝心なことは知らない。

どうして僕らが、樋口季一郎とユダヤ人の関わりを知るようになったかというと、僕が小学2年生のときにミハエル・コーガン(※)が家に来たんです。樋口が東京裁判の証人を務めるために九州から上京して我が家に滞在していたときだから、昭和29年(1954年)頃ですね。

※ミハエル・コーガン:ユダヤ系ウクライナ人の実業家。「スペースインベーダー」の大ヒットで知られるゲーム会社タイトーの創業者。1937年にハルビン(満州の中心都市。現中国黒竜江省)で第一回極東ユダヤ人大会が開かれた際には、会場の警備員として来賓の樋口季一郎の護衛を務めた。

終戦直後は貧しい日々を過ごしていた樋口季一郎

樋口 当時、コーガンはタイトーの前身となる株式会社太東貿易という商社を設立したばかりで、その商社で輸入していた「トロイカ」というポーランドのウォッカの小瓶と、バナナの房が入った果物籠を手土産に持って来ました。あの頃のバナナといえば、貴重品で子どもの憧れでしたから、彼の来訪は今でも鮮明に覚えています。

2人はいろいろ話し込んでいて、それを私も近くで聞いていました。この時、私たち家族は、祖父が満州で大勢のユダヤ人を助けたことを、初めて本人の口から聞いたわけです。

また、コーガンは「会社の顧問になってほしい」と祖父に頼んでいましたね。祖父はその申し出を丁寧に断っていましたが、私は子ども心に「おじいちゃん、貧乏なんだから、このおじさんの会社に入ればいいのに」と思っていました。当時はまだ軍人恩給が支給されていない時期で、祖父も無一文でしたからね。

祖父は九州の高千穂の田舎で農業をして、自給自足の生活をしていました。それに、私も「おじいちゃんが、このおじさんと仲良くしていれば、またバナナもらえるんじゃないかな」と思っていたので(笑)。

岡部 なるほど(笑)。でも、樋口中将はうれしかったでしょうね。

樋口 それは喜んでいましたよ。コーガンが帰ったあと、もらったウォッカをチビチビと舐めながら、大きな声で「ヴォトカ・トロイカ」とラベルをロシア語風に読んで上機嫌にしていました。昔、自分のガードマンをしてくれていた若者が、立派になって訪ねて来てくれただけでも、もう年寄りはもう大喜びなわけです。今なら私もその気持ちが、すごくよくわかります。

▲幼少期の頃の祖父について話す樋口氏