ついに世界最大最強の国が襲来(文永の役)

1271年にフビライ・ハーンが、国号を元に変えました。ここからが元朝の始まりです。

北条時宗は、フビライ・ハーンからの合計6回の国書〔うち、1回は日本側には届かなかった〕を、ことごとく無視しました。しびれを切らしたフビライ・ハーンが、いよいよ軍を日本に向けて攻めてきます。1274年、文永の役です。

モンゴル軍は、どこから攻めてくるのでしょうか。一番考えられるのは北九州です。太宰府に軍勢を集結させていると、元軍は対馬・壱岐を蹴散らしながらやってきました。

俗説では、モンゴルの集団戦法に対して日本側は重い鎧を着けて「やあやあ我こそは」などとやっていたから苦戦したといわれますが、それが全てではありません。

無能な鎌倉武士が、元軍にさんざん翻弄されたあげく、神風が吹いたので勝ったなどとする説が長らく信じられてもきました。しかし、実際のところ日本側の重装騎兵に対して、元軍の軽装歩兵が必ずしも有利ではないのです。

お互いに、どんな戦い方をするのかも分かっていませんでした。モンゴルからすれば、いざ戦ってみると、日本が意外と強かったので国に引き揚げていったところ、台風に遭って壊滅。

日本も1日目は負けたと思って引き揚げたけれども、モンゴルが帰ってしまっていたので拍子抜けした、というのが実情でした。戦いではこうした光景が、よくあります。

元軍の総司令官ヒンドゥは、自分が負けたとは一言も言っていません。日本に攻めかかっていくと、意外に手強いので引き返したところに台風がきました、とだけ報告しています。それはそうでしょう。彼の主観ではそのとおりであり、総司令官の立場としても、負けたとは言えません。

▲文永の役

高麗と宋を完全征服したフビライ=ハーン

しかし、客観的に見れば日本の勝ちです。

世の中には、日本が勝ったのを認めたくないからなのか「威力偵察だった」という人がいますが、そう言う人は、この戦で何人が死んでいると思っているのでしょうか。

また、フビライが日本を攻めるために、高麗に戦艦1000艘の建造命令を出し、実際には900艘に乗って3万人弱の兵がやってきたことを、どのように説明するのでしょう。そんな威力偵察がどこにあるというのでしょう。

たとえ、文永の役が辛勝だろうが、日本の勝ちは勝ちです。モンゴル人にとっては数少ない負けの1つですが、モンゴル人は負けを気にしません。だからといって、日本が勝っていないことにはならないので、念のため。

文永の役後も、フビライから性懲りも無く「降伏しろ」との国書が送られてきます。負けたと思っていないのですから、当然です。

北条時宗は、ならばこちらから打って出ようと、朝鮮半島への逆侵攻計画を考えます。というのは、時宗には文永の役で働きのあった武士たちに、恩賞としての所領を与えられないという切実な問題があったからです。ただ、力が均衡している場合、守る方が有利なのが戦いです。時宗は防衛に専念することにしました。

フビライは、その間に高麗と宋を完全征服しています。

フビライが宋を征服したときは、相手を海に叩き落とすように攻めています。中国を征服する時の、セオリーどおりのやり方でした。ちなみに、支那事変(1937年~1945年)の時の日本のやり方は、これとは全く逆でした。時計回りに攻めて、相手を山に追いやりました。わざと長引かせるべく、勝たないよう戦ったとしか思えません。

1275年4月、文永の役からわずか6か月にして、元の使者が長門国室津(現下関市室津)に到着します。さて、このとき時宗はどうしたでしょうか。