アイドルグループ「HKT48」の6期生、梁瀬鈴雅(やなせ・れいあ)さんの新連載「鈴の音」が今月よりスタートします。
中学生の時、突如病におそわれ、辛い日々を送るなか出会った「HKT48」という存在。退路を断ち、病の影を感じながらアイドルとして生きる日々。この先の道を思い悩んでいた時に出会ったある人物の存在。
この連載では、梁瀬鈴雅がこれまでの人生で出会ってきた「人物」について、彼女自身の言葉で綴ってもらいます。
▲梁瀬鈴雅(HKT48)連載「鈴の音」 第一回

私はなぜアイドルになったのだろう

スポットライトに照らされ、観客のペンライトに包まれ、私は今日もステージに立っている。光に満ちた明るい世界の中に立っているはずなのに、足元はどこかおぼつかず、心は闇の中を彷徨っているようだ。私は誰のために歌い、踊っているのだろう。自分自身のためなのか、それとも他の誰かのためなのか。あの日の自分のように立ち止まってしまう誰かに、ほんの少しでも歩き出す力を届けられる存在でありたいのか。

私はなぜアイドルになったのだろう。

今から5年前、私が中学生だった頃の話だ。

ある日の朝、目を覚ましたら体が動かなくなっていた。ベッドから起き上がろうとすると、瞬間的に気持ち悪さと倦怠感に襲われる。それが毎朝繰り返されるのだ。昼過ぎになればようやくベッドから起き上がれるようになるが、体のだるさは常に残り、数分立っているだけで頭の血の気が引くような感覚に襲われる。用事で家を出ても、すぐに体が言うことを聞かなくなり、道端に座り込んでしまうようになった。次第に食欲は薄れ、夜も眠れなくなり、陽の光を浴びぬ体は少しずつ弱っていった。

そんな日々を続けるうちに、私はほとんどの時間をベッドで寝たきりで過ごすようになった。当時通っていた中学校にも行けなくなった。お風呂に入ることも、歯を磨くことさえ力が出ない。ヘアドライヤーの重さにも耐えきれず、1分も持たず腕が落ちてしまうから、髪はいつも湿ったままだ。食事をするために体を動かすのが億劫で、ベッドに横になりながらラムネを1袋だけ食べてやり過ごす日も多かった。

自分の身に何が起きているのか、私にも分からなかった。

家族や周囲からは怠けと決めつける視線を向けられ、やがて自分自身までもがそうではないかと思い込むようになった。自分を鞭打つように奮い立たせ、何とか立ち上がろうと足掻いたが、それでも体は思うように動かず、心には自責と恐れが押し寄せる。自分の周りだけ酸素が薄いような感覚で、常に息苦しさを抱えていた。

長く変わらない私の姿を見た母の勧めで病院へ行くと「起立性調節障害」と診断された。

この病気は、自律神経の働きがうまくいかなくなることで、立ち上がったときに血流が調整できず、脳に十分な血が届かなくなるものだ。結果、立ちくらみや強い倦怠感、時には失神まで引き起こす。思春期の子どもに多く、実際に中学生の10人に1人は抱えているとされる、決して珍しくない病気だ。

私はその中でも人一倍症状が重く、病院で処方された薬を何種類も試したが一向に改善しなかった。漢方薬にも手を伸ばし、祖母が買ってきた効能がよく分からないサプリメントまで口にした。こんなもので治るはずがないと諦めつつ、1瓶4万円もすると知り気が重くなった。

こんなにお金をかけてもらっているのに良くならない自分が情けなく、プレッシャーで家にいるのも辛かった。体も心も疲れ果て、毎日何十錠もの薬を、効き目など気にせず惰性で飲み続けた。

中学校には親に送り迎えをしてもらいながら必死に通ったが、結局は出席日数が足りず、やがて「留年か退学か」という選択を突きつけられることになった。その頃、病状は悪化するばかりで、たとえ留年を選んでもその一年で病気が治る望みはほとんどなく、結局道が絶たれるかもしれない。かといって、自ら退学を選ぶことなどできなかった。

私は、小学校から慶應義塾大学付属の一貫校に通っていた。しかも私の家族は全員が揃って慶應に通っており、進学の道は当然そこに続いているものだと思い込んでいた。

何も考えず、幼い頃からただ敷かれたレールの上を歩くだけが自分の運命だと信じていたのだ。

だからこそ、そこから外れることを考えることすらできず、その先を想像するのがただただ怖かったのだ。決断できないまま時が過ぎ、考える気力さえ尽き果てた。未来という言葉がもう自分には関係のないものに思えた。