未曾有の苦難を乗り越えた、先人(日本人)の知恵を世界史の中から学びとる! 何度も届くフビライ・ハーンの国書を無視しながら、鎌倉時代の青年首相ともいえる執権・北条時宗は何をしていたのか?  憲政史研究家の倉山満氏が伝える歴史のリアル。

※本記事は、倉山満:著『若者に伝えたい 英雄たちの世界史』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです

亀山天皇から全て一任された北条時宗

モンゴル帝国を継承しつつ元朝を建てたのは、チンギス・ハーンの孫の1人であるフビライ・ハーンです。モンゴル帝国第5代ハーンでもあります。1268年にフビライ・ハーンから日本の鎌倉幕府に突然、国書が届きます。

フビライ・ハーンの国書は、北条時宗が執権になった時に届きました。このとき国書をもってきた高麗の使者は、太宰府に留め置かれた後、日本からの返書は得られず、帰国します。時宗は「家来になれ!」と言われたのですが、無視したのです。

翌年1269年にも、フビライ・ハーンの国書が対馬に届きますが、日本側は受け取りさえ拒否します。使者は対馬から引き返しました。約半年後に、またまた国書が届きますが、これもまた無視します。

それでもフビライ・ハーンはあきらめず、1271年、1272年と続けざまに使者を送ってきては、なんとか国書を渡そうとしました。歴史の結果を知っている未来の日本人の私たちからすると、フビライの努力が涙ぐましく思えてきます。

しかし当事者の時宗は、世界中を支配しようとする大帝国を相手に喧嘩を売ったのですから、緊張感は頂点です。では、何回も届くフビライ・ハーンの国書を無視しながら、執権・時宗は何をしていたのでしょうか。

時宗は、まず裏切り者を皆殺しにしました。1272年に起きた二月騒動です。二月騒動で短期間のうちに反対派を粛清し、外敵に集中できるよう、挙国一致体制を作ったのです。内に裏切り者を抱えていては戦いになりません。そして、天皇大権である外交権を、朝廷から預かります。時宗は亀山天皇から強力な信頼を得て、軍事はもちろん、外交大権も全て一任されました。

▲亀山天皇

惟康王を“源”氏将軍として武士をまとめた

さらに、鎌倉幕府第7代将軍に源氏の将軍を誕生させ、武士の士気を高めます。これも挙国一致体制作りの一環です。鎌倉幕府の源氏の将軍は第3代・源実朝が最後だと思われがちですが、4人目の源氏将軍がいます。第7代将軍の源惟康(これやす)がその人です。

第6代将軍・宗尊親王が、時宗にクーデターを起こそうとしたのを理由に、京都にお帰りねがい、宗尊親王の息子・惟康王を新たな将軍に迎えました。そのとき、惟康王に臣籍降下し、源惟康を名乗ってもらったのです。これで、源氏の将軍の旗のもとに皆が結集できる体制が整いました。

ちなみに話を先取りしておくと、2度にわたる元寇の後、源惟康将軍は京都に戻り、親王宣下されて惟康親王となります。

北条時宗は、朝廷・寺社・幕府のいわゆる権門体制と、幕府に属さない武士を加えた全員が、一致団結する体制を作り上げたわけです。