常識をそのままにせずに「考える」ことが必要
川辺 それに関して言うと、やっぱり物理的に距離があると、関心の限界っていうか、そういうものがある気がするんです。
僕は逆に、阪神淡路大震災に対して、体感できなかったことが、自分の想像の限界を作ってるっていう感覚があって。阪神淡路大震災を体感した友人、被災した友人、大切な人の命を奪われた友人の話をきいて、やっと考えをめぐらせることができる。
河野 やっぱり体感しないとわからないっていうのは決定的にあると思います。私もそういうことをきっかけに、生きた本当の思索をしなきゃいけないし、自分で考えて何かを決めていくっていう態度を取り戻さなきゃいけないと思ったんですね。
川辺 そういう意味でいうと、市民が参加できる社会にしていくんだということは、もちろん東日本大震災の前から思ってらっしゃったことだと思いますが、より強まったわけですね。
河野 それはもう、本当にそう感じました。それが原体験ですね。
川辺 市民社会をつくるためには本物の思考力っていうものが身についてなければだめで、じゃあ思考力ってなんだろうと。河野さんの考える思考力っていうのは、言いかえれば自分の意見を表明する態度のようなものでしょうか。
河野 そうですね。意見を表明することはたしかに大切ですね。でも、考えるってことは、ただ意見を表明するだけじゃなくて、それを「もむ」ことだと思うんですね。つまり、正しいかどうか検討するってことです。
そのためには、やっぱり何かと照らし合わせなければいけない。それは、他者の言葉かもしれないし、もしかしたら本かもしれないし、いろんな媒体と照らし合わせる作業が必要です。自分の思ったことをもんでいって、本当にそれでいいんだろうかと検討します。
あるいは、私たちが、これはこれでいいんだといった形で常識的に受け取ってるみたいなものを、もう一回掘り起こさなきゃいけないんじゃないかと思うわけです。そういう活動が「考える」ということだと思うんです。