有名な「墨俣一夜城」伝説の真相は?

藤吉郎の出世のきっかけになったのは、信長さまの「美濃攻め」での活躍であるというのは、お話しした通りでございます。そのなかでも、とくに有名なお話が「墨俣一夜城」です。

▲大垣墨俣一夜城 出典:PIXTA

永禄9年(1566年)のことで、木曽川の対岸、美濃国安八郡(現大垣市)の墨俣(洲股)に、蜂須賀小六さまら川並衆を動員して、上流で部材を組み立てて木曽川を降って運び、一夜にして、現代で云えばプレハブ方式で天守閣まで備えた本格的な城を築いて、城主にしてもらったというものでございます。

この話は同時代の文献には出てこず、江戸時代中期から散見されるようになり、『絵本太閤記』で有名になりました。『武功夜話』にはいっそう詳しく書いておりますし、司馬遼太郎さんや堺屋太一さんも紹介しています。

『甫庵太閤記』にも藤吉郎が、蜂須賀小六(正勝。子孫は徳島藩主)、 稲田貞祐(子孫は徳島筆頭家老)、加治田直繁(福島正則の家老。子孫は尾張藩士)など「夜討ち強盗を営みとしている者」の活用を進言し、彼らを使って敵地に砦をつくったという話は出てまいります。ただし、それが墨俣城だとは書いておりません。

もちろん、藤吉郎が蜂須賀小六さまたちのことを「夜討ち強盗を営みとしている者」などと言うはずもありませんから、それは小瀬甫庵さまの悪い冗談でございます。

この墨俣というところは、長良川の右岸(東側)にあって、現在の木曽川からは遠いものの、天正14年(1546年)の木曽川氾濫の前は、この少し上流で木曽川本流が長良川と合流しており、羽島市や笠松町は尾張国羽栗郡に属しておりました。その対岸にあった墨俣城は軍事的な要地で、織田と齋藤が取り合いをしていたのでございます。

▲岐阜墨俣の桜堤 出典:PIXTA

 現在のように治水工事が進んで、コンクリートの堤防によって巨大な川にまとめられたものではなく、氾濫のたびに姿を変える支流が入り組んで、中州がたくさんございました。なので、はっきりした国境で織田と齋藤の支配地が決まっているということではありませんでした。

織田方にも、齋藤方と両方に誼(よしみ)を通じるような土豪たちがいたわけで、ときには野武士のようなことをすることもあったかもしれません。

そのなかで旧知の蜂須賀小六さまなどを取り込んだりしながら、藤吉郎が美濃国内に進出して拠点を置いて、調略に活躍していたのは事実でございます。どこの砦を本拠にしていたかは、私は清洲、そのあと小牧でいわば銃後の守りをしておりましたので存じませんが、墨俣ではなかったと思います。

後世の方が、このあたりでいちばん有名な砦が墨俣城だったので、ここを物語の舞台に選ばれて、世の中でもなんとなくそうだ、ということになったのではないでしょうか。