織田家=成り上がりのイメージはおかしい

遠江の松下家を出た藤吉郎は、尾張に帰って信長さまに仕えるみちを探りました。その頃の信長さまは、父の信秀が急死して織田家中が乱れていたのをようやく固め、尾張統一にまっしぐらだったのでございます。

そのことは、遠江で松下家に仕えていた藤吉郎にも聞こえ、今川家中には不安が拡がっておりました。織田信秀が健在だった頃には、今川氏はさんざん痛めつけられましたので当然でございます。

そこで、ちょっと藤吉郎から話は離れますが、織田家の由来と信長さまが登場されるまでの歩みを、家臣の娘の私が聞いていたことに過ぎませんので当てにはなりませんが、お話しいたしましょう。

大河ドラマや小説では、織田家は今川家や越前の朝倉家に比べて、新興勢力のように描かれるのですが、それは信長さまの飛躍ぶりを強調するため誇張されたところがあり、実のところ、たいへんな名門なのでございます。

▲ 織田信長画像(秀吉清正記念館) 出典:ウィキメディア・コモンズ

織田家が尾張にやってきたのは応永6年(1399年)ごろ、室町幕府の管領だった斯波氏が本領の越前に加えて尾張の守護になられ、越前の有力者だった織田氏が守護代として派遣されたからでございます。

越前守護代は甲斐氏でしたので、それよりは下ですが、朝倉氏よりは上の扱いです。ですから、朝倉氏が名門で、織田氏が成り上がり者だというのはおかしいのでございます。

官職を受けるときは、藤原朝臣〔ふじわらあそみ:天皇家から別れた家系以外の臣下のなかでは事実上、一番上の地位にあたる姓〕を名乗ったようですが、本来は忌部氏〔いんべうじ:古代朝廷における祭祀を担った氏族〕ともいいます。

しかし、先祖の親真という人は、平資盛(清盛の孫、重盛の子)の子で、母が再婚した近江国蒲生郡の津田郷(近江八幡市)の土豪のもとで育てられ、縁あって越前の織田家の養子になったということになっているのでございます。

一族でも、傍流の者には津田姓を名乗らせておりましたし、あの安土城は津田庄とすぐ近くでございますから、まったく根も葉もない話でもなさそうです。ただ、織田氏発祥の地は越前であるというのが普通でございまして、いわば本籍地は福井県ということになります。

多くの分家があり、岩倉が本拠の伊勢守家が上四郡(北部)を、清洲が本拠の大和守家が下四郡(南部)を領し、斯波氏は京にありました。織田家の人々もしばしば京に上って、管領としての斯波氏を支えておりましたから、京の事情には通じていたのでございます。

斯波家は、官職である兵衛督(ひょうえふ)の中国風の言い方である「武衛様」と呼ばれておりました。信長を出した家系は、清洲の大和守家の3人の重臣のひとつである弾正忠家で、稲沢市の勝幡城を本拠とし、近くの津島の湊を押さえておりました。

ですから、京からやって来た旅人から京の様子も聞けましたし、木曽川を使って武装しながら商売をする川並衆(当時はそんな呼び方をいたしませんでしたが、便利なので使います)ともつながりがございました。

こうした立場を生かして、織田信秀さまは、現代でいえば県政を牛耳り、知事や国会議員をも黙らせる実力派県会議員に似た立場になられたわけでございます。