私との結婚から4年後には武将として活躍

結婚してからしばらくの時期、藤吉郎は才覚のある若者として信長さまから重宝されておりましたが、織田軍団でいっぱしの武将として認められたのは、美濃攻めでの活躍が故でございます。といっても、いちばん確かな記録である太田牛一さまの『信長公記』の美濃攻めの箇所には登場いたしません。

▲私たちもビックリするような文献も残っています イラスト:ウッケツハルコ

太田牛一さまというのは、藤吉郎より10歳ほど年上で、尾張国春日井郡山田荘安食村(名古屋市北区)で生まれた地侍のお子でございます。最初は、斯波義統さまや柴田勝家さまに仕えていましたが、やがて弓の名手として信長さまの目にとまりました。

そのうちに、文才を買われて祐筆として活躍されたのでございます。本能寺の変ののちは、丹羽長秀さまのところを経て秀吉に仕え、太閤検地などに活躍されました。

文才があるだけでなく記憶力抜群で、歴史に忠実な記録を残すことに情熱を傾けられました。『信長公記』の奥書でも「故意に削除したものはなく、創作もしていない。これが偽りであれば神罰を受けるであろう」と書いておられるほどでございます。

もちろん、記憶違いも多いのですが、私がいま見ても“えこひいき”がない資料でございます。

ただ、美濃攻めのころは、まだ信長さまのおそばに仕える前です。『信長公記』にもご自身が書かれているように、堂洞城(どうほらじょう)攻防戦で得意の弓を使って活躍し、信長さまの眼にとまった頃ですので、信長さまの近くで美濃攻めの全体像をご覧になっていたわけではございません。

そんなことで、信長さまが岐阜城に入られてから以降に比べると、大まかなことしか書いていないので、藤吉郎が登場しないのは仕方のないことでございます。

藤吉郎の名が初めて登場するのは、足利義昭さまを岐阜に迎えたのち、上洛に向かう妨げとなっていた観音寺城の六角承禎〔ろっかくじょうてい:剃髪前の名は六角義賢〕を攻めた戦いのときでございます。

▲観音寺城跡(滋賀県近江八幡市) 出典:PIXTA

観音寺城の支城である蓑作城(みつくりじょう:東海道新幹線の上り線だと左側に観音寺城跡、右側に蓑作城跡が見えます)を永禄11年(1568年)9月12日に攻めたおりに、佐久間信盛さま、丹羽長秀さま、浅井政澄さま(近江浅井一族で長政さまと祖父同士が従兄弟です)という三人の名だたる先輩武将の皆様とともに、藤吉郎の名が並んでおります。

つまり、この頃には20人くらいの主だった武将のひとりに数えられるまでに出世していたわけでございます。そして、翌年に伊勢国司の北畠具教さまを大河内城に攻められたときにも、多くの武将とともに藤吉郎の名前が出てきております。

また、いま残っている書状ということでなら、永禄8年(1565年)11月2日付けの松倉城主・坪内利定宛て知行安堵状(ちぎょうあんどじょう)で「木下藤吉郎秀吉」として副署しております。私たちの結婚から4年後のことでございます。つまり、結婚してから4年後には、そこそこの武将になっていたわけでございまして、私の内助の功も自慢していいのではないでしょうか。

そんなわけで、結婚してから信長さまの上洛に参加するまでの7年間のことは、私が藤吉郎から聞いたことについてのあやふやな記憶と、少しあとの時代に、さまざまな方が言い伝えをまとめられた軍記物に頼らざるを得ません。

しかも、藤吉郎の話は調子よくて、私もどこまで信用していいのかわからないところもあることをお許しくださいませ。