信長が足利義昭に誓った上洛の決意

美濃を征服したのち「天下布武」の印を使い始めて、中央政界へ進出する意欲を示された織田信長さまのところに、足利義昭さまが移ってこられたのは、永禄11年(1568年)夏のことでした。

義昭さまの兄である前将軍の義輝さまが、三好・松永の手にかかって殺されたのは、永禄8年(1565年)5月19日のことでございました。覚慶と名乗って奈良の興福寺におられた弟の義昭さまは、細川藤孝らの力添えで近江に逃げ込まれましたが、11月21日には、朝倉氏の本拠である一乗谷の安養寺に迎えられておられたのでございます。

▲安養寺 出典:PIXTA

しかし、朝倉家中では義景さまが義昭さまを奉じて上洛し、管領代のような地位について天下に号令したいと考えておられたとしても、越前の土豪たちは気乗り薄でございました。

現在は、福井県の人口は北陸四県でいちばん小さいのでございますが、伝統的には福井県が最大で、越前国の石高も越後国より上という豊かな国でしたので、十分、国人たちも満足していたのでございます。

そうしたところ、織田信長さまから、美濃征服が完了し、いよいよ義昭さまと一緒に上洛する準備が整ったと言ってきたものでございますから、話はとんとん拍子に進みました。

義昭さまは越前を出発し、浅井長政さまの居城である小谷城の麓にある清水館に滞在されたのち、7月に岐阜市西部にある立政寺という浄土宗のお寺に到着されました。

信長さまは義昭に銅銭・太刀・武具などを進呈され、上洛への決意を申し上げられたのでございます。

このときに、大活躍されたのが明智光秀さまでございます。帰蝶さまの母親である小見の方の縁者でおられることは以前にお話しいたしましたが、斎藤道三さまと義龍さまが争われた長良川の戦いのあと、国を離れられて、越前の朝倉さまのところや、京の細川藤孝さまのもとにおられました。

この時代は江戸時代と違い、主従の関係は終身で固定していたわけではありませんでしたし、客分とか与力とか、主従とはまた違う関係も多かったのでございます。

令和の世でいえば、代議士と秘書だとか地方議員の関係に似ていたのでございます。あちこち渡り鳥をしたり、貸し借りをしたりも多かったのです。 

義昭のライバルである第14代将軍・足利義栄

光秀さまは、藤孝さまとお知り合いになったのち、その客分のようなかたちで、将軍にお仕えになったり、近江高島郡の田中城(※1)での戦いで、幕府に近い武士の応援に出かけたりされていたことも記録に残っております。

▲田中城 出典:PIXTA

そのうちに、義昭さまが越前に移られると、土地勘があって朝倉家中にも知り合いが多いので重用されたのでございました。

そして、信長さまが美濃を手に入れられたのち、義昭さまを勝手知った岐阜に移す準備で活躍されたのが、光秀さまにおける信長さまとのつながりの始まりでございます。

この頃、義昭さまのライバルとして足利義栄(※2)さまという方が、第14代の征夷大将軍に就任されてましたので、この方についても申し上げておかねばなりません。義栄さまは、義昭さまの従兄弟でございます。

阿波の三好一党に庇護されて阿波平島(阿南市那賀川町)におられたのでございますが、義昭さまの兄である義輝さまを暗殺した三好三人衆に担がれて将軍になろうとされ、阿波から摂津に移られたのです。

そして、義昭さまと同等の官位をもらわれ、信長さまが上洛される年の2月には、朝廷に多額の献金をし、将軍宣下を受けられました。義昭さまや信長さまの動きが盛んになったので、少し無理をして先手を打ったわけでございます。