織田家に美濃出身者が多い理由

德川時代の殿様たちには、譜代大名と外様大名の区別があったそうでございます。関が原の戦いの前から仕えていたのが譜代ということらしいのですが、いちばん多いのは三河出身の方々です。幕末まで生き残った279家の大名のうち、123家が三河出身だそうです。

▲関ヶ原古戦場 出典:PIXTA

それに次ぐのは、尾張の34家、美濃の13家、近江の12家なのですが、この方たちは織田や豊臣に仕えていた武将たちの子孫が、外様大名として生き残ったものでございます。

一方、関ケ原の戦いより前、つまり豊臣時代の大名214家を調べてみますと、徳川譜代の方々は家康さまの家臣でございましたから大名ではなかったので、大名では三河出身の方はほとんどおられません。

尾張がいちばん多くて63家、美濃が二番目で30家、そして、近江が三番目で27家ということでございました。

このうち近江は、藤吉郎が長浜城主になってから取り立てた武将たちが多く含まれておりますので、織田譜代といえる家臣団は、だいたい尾張出身者と美濃出身者からなっていたことがわかります。

そして、尾張出身者が多いのは当然でございますが、美濃出身者が尾張出身者に準じるくらい軍団の中核を占めていたということでもあります。

これは、つまり信長さまの美濃制覇は、尾張の織田が美濃の斎藤を打ち負かしたのではなく、斎藤道三さまの跡目争いを、子の義龍さま・孫の義興さまの父子と、娘婿の織田信長さまがされて、信長さまが勝利を収められた、という性格のものだったということでございます。

斎藤道三さまは、尾張冨田の聖徳寺での会見で出会った信長さまをすっかり気に入られました。尾張統一の戦いにも軍勢を出すなど、おおいに可愛がられたのでございます。これが面白くない義龍さまは、なんと道三さまが可愛がっておられた孫四郎と喜平次という弟2人を瞞して呼び出して殺し、怒って義龍さまを討とうとされた道三さまにも逆襲して、討ち死させたのでございます。

道三さまは亡くなるときに「美濃は信長にやる」という遺言状を書いて、末子の利治さまに託されました。このことで信長さまは美濃攻略の口実を得られ、また美濃衆も、信長さまにつくことを斎藤家を裏切ったと言われることなくできることになったのでございます。

ただ、義龍さまは、有能で「国盗り」をした道三さまを快く思わず、土岐家を大事にしたい武士たちからの評判がよかったのでございます。また、義龍さまが死んだあと、そのお子の義興は暗愚だと言われつつも、粘り腰は見せられたので、容易に美濃攻略は進みませんでした。

▲茶畑が広がる現在の美濃の風景 出典:PIXTA