小牧から稲葉山城に引っ越してきた信長

岐阜城は、鵜飼いで知られる長良川のほとり、海抜320メートルの稲葉山(金華山)の頂にございまして、いかにも要害堅固です。

▲長良川と岐阜城 出典:PIXTA

ところが、この城は“落城ばかりした城”でございました。関ケ原の戦いの前哨戦でも、織田信長さまの嫡孫である秀信さま(三法師)が、西軍に属してここで籠城されましたが、東軍の攻撃であえなく落城してしまい、廃城になってしまいました。後ろの尾根から敵に回り込まれると、弱いのでございます。

信長さまが、美濃攻めの総仕上げに稲葉山城を陥落させられたのは、永禄10年(1567年)9月のことでございました。佐久間信盛さまや柴田勝家さまの軍勢が尾根から背後に回り、信長さまは城下から攻撃されました。

美濃勢が多く寝返っておりましたから、誰が味方で誰が敵であるかもわからない中で、あっけないものでございました。斉藤義興さまは、長良川を小舟に乗って下り伊勢長島に移られました。

このとき、藤吉郎が稲葉山城の裏山から、猟師の子だった堀尾茂吉(のちに松江城を築いた吉晴)の案内で城を落とした、と『絵本太閤記』にはございますが、史実ではありません。

藤吉郎は、稲葉城の城下町である井之口を熟知した西美濃衆などと共に、城下を制圧することを手伝っていたと聞いております。

稲葉城を手中にされた信長さまは、居城を小牧からこちらに移されることになりました。新しい支配地である美濃の支配を固めるためには、大水が出てしまうと木曽川などを渡るのも面倒な尾張にいては十分でないと考えられたわけでございます。また、小牧は大きな城下町を営むには不向きでもありました。

そして、井之口を岐阜という名に改められました。古代の唐土(中国)で、周の文王という方が天下統一の拠点とされたと言う“めでたい地名”でございます。もっとも、もともと禅僧などが、井之口の別名として岐陽という名で呼んでいたことはあるらしいのです。めでたい名前だというので、それを信長さまが気に入られて、正式の名前とされたということのようでございます。

信長の気を引こうと贅沢な屋敷を建てた秀吉

お城は山上と麓に分かれておりまして、信長さまは普段は山上の館に住んでおられました。山上に天守閣のような建物があったかどうかよく憶えておりません。そして、用事があると何日かに一度、麓の御殿(現在のロープウェーの駅辺り)に降りてこられました。

そこには信長さま好みの立派な広間がある四階建ての御殿がございまして、大きな石を集めるのが好きな信長さまは、ここに立派な庭も造られました。この頃は、信長さまと私たち主だった家臣の家族は親しい間柄でございましたから、私も呼んでいただき、贅沢な気分にさせていただきましたし、信長さまの奥方の帰蝶さまもお元気で、私たちを機嫌良く迎えてくださいました。

▲「いまも懐かしく思ういい時代でした」 イラスト:ウッケツハルコ

御殿のまわりには、家臣たちの屋敷が並び、華美なものが好きな信長さまの気を引こうと、贅沢な建物を藤吉郎たちも競争で建てたものでございます。

私も義母のなかも、慣れない絹の着物など着る羽目になり、窮屈そうでした。藤吉郎が戦いに出ているときは、羽を伸ばしてよその奥方さまたちともお付き合いもでき、都会生活を楽しめ、いまも懐かしく思ういい時代だったのでございます。

そして、岐阜に商人を集めるために、楽市・楽座を設置されました。中世にあっては、商工業者は座というカルテル組織をつくり、寺社などの保護を受けるかわりに、貢納金を支払っていたのです。

信長さまは、これを否定して、商売を自由にして自分の支配下にある町を栄えさせるとともに、寺社や自治組織の力を削ぎ、場合によっては自分のところに税収を集めようとされたわけでございます。

最初に始めたのは、近江の六角定頼さまと言われておりますが、信長さまはこの手法を大いに発展されたのです。

この政策は、安土でも大々的に実施されますし、藤吉郎も長浜でマネをするわけですが、その初めは、岐阜城の南にある中山道・加納宿でのことだったのでございます。