天下とは“畿内”という議論に意味は無い

信長さまが「天下布武」の印判を使い始められたのは、斎藤氏を滅ぼされて美濃を手に入れられた、永禄10年(1567年)の9月から2か月ほど後のことでございます。足利義昭さまとともに上洛されたのは、その翌年の9月です。

井之口の町と稲葉山のお城を、古代中国で殷朝にかわって天下を治めた周王室の出身地に倣って岐阜と名付けられたのは、全国に号令しようという意欲の表れと考えて間違いございません。

▲岐阜城 出典:PIXTA

最近、この「天下」は畿内のことで、全国ではない、とかいった議論が流行っているようでございます。

しかしながら、私はあまり意味がある話だとは思っておりません。信長さまが足利義昭さまを奉じて上洛されたところで、幕府の直轄領は京の都の周辺だけでございました。畿内全体にすら及んでおりません。しかし、将軍さまは九州から東北までの守護の任命に介入できますし、明国などとの貿易も将軍さまの少なくとも黙認が必要でございます。

現代でも東京の政界といえば、新宿の都庁でなく永田町を指します。江戸時代には関八州というのが幕府権力の代名詞でございましたし、アメリカではワシントンといえば中央政府のことです。

ですから、天下という言葉が直接には全国を指していなかったとしても、信長さまご自身が畿内のローカル政権を目指されていたはずもございません。また、南蛮船の到来などで「日本」という国家や国境への意識は、徐々に強化されつつあった時期でもございました。

ただ、当時の武将たちや京の庶民が信長さまの上洛を、永正5年(1508年)の大内義興さまと足利義尹(義稙)による上洛や、永禄元年(1558年)に上洛されていた三好長慶さまが将軍義輝さまを京に迎えられたこととは違うものと、最初から受け止めていたかというと、そうでなかったと思います。

とはいっても、信長さまは、庶民から身を起こして本当の意味での新しい時代の政治をした秀吉と違って過渡期の方でございます。中世武家社会の名門一族から出て、その伝統社会の仕組みをよく知り、余計なところで摩擦を起こさないようにし、攻めるべき所は果敢に戦って、統一国家という新しい時代の方向付けをされた方だと思うのでございます。

▲上洛の準備をすすめる信長さま イラスト:ウッケツハルコ

着々と上洛の準備をすすめる信長

岐阜に落ち着かれた信長さまは、一方で、上洛の邪魔にならないように北伊勢の土豪たちを手なづけられました。この方面の作戦の指揮官は、滝川一益さまでございました。

滝川さまは、近江甲賀郡の大原(甲賀市)というところの出身と聞いております。JR草津線甲賀駅の近くでございます。故郷で一族と争いごとがあって国を出て諸国を巡られたようですが、鉄砲の知識と技術を身につけられて、信長さまに仕えるようになったとうかがっております。

▲神戸城 天守台 出典:PIXTA

その滝川さまを、永禄10年(1567年)から伊勢に派遣して土豪たちを従わせました。翌年には神戸城(鈴鹿市)の神戸氏に三男の信孝さまを養子として送り込み、上野城(津市北部にあって伊賀の上野城とは別です)にあった長野氏には弟の信包さまを養子とさせ、こうして信長さまは北伊勢八郡を固められたのでございます。

この戦いでは、藤吉郎も手伝いに従軍しておりますが、さほどの働きをしたわけでなく、新しく与力(信長さまからの指揮下に入るように指示された客分です)になっていただいたばかりの竹中半兵衛さまのお知恵をお借りして、西美濃の支配を固めるほうが主たる仕事でございました。

南伊勢の北畠具教さまを攻めて、次男の信雄さまを養子に入れられたのは翌年のことで、それは少しあとのことでございます。

そして、そこから近江甲賀郡の佐治氏とか野洲郡の永原氏とかにも書状を送り、近江の地侍たちの調略に乗り出し、近江南部の守護である六角氏への包囲網を慎重につくり上げていかれたのは見事な差配でございました。 

着々と上洛の準備を進められた信長さまは、三河の徳川さまのほか、甲斐の武田さま、越後の上杉さまといった遠国の大名たちとも誼(よしみ)を通じられましたが、そのことは、また別の機会にお話しいたします。