浅井長政が反旗を翻したのは「ありえなくはない」

信長さまは、越前の嶺北と嶺南を分かつ木ノ芽峠の辺りまで進出され、朝倉氏の本拠地である一乗谷まで攻め入る勢いでございました。

朝倉氏を一気に滅ぼそうとまで考えられていたのかどうかは、わかりません。ただ、神功皇后の宮がある頃から栄えた港町である敦賀を手に入れ、越前に睨みを利かせて自滅に追い込もうというくらいは、念頭にあったはずでございます。

ところが、元亀元年(1570年) 4月26日の夜になって、湖北の浅井氏が信長さまに反旗を翻し、敦賀から山越えしたところにある琵琶湖有数の港町である海津に進出してきたことを知らされました。海津は、現代でこそ寒村で「海津大崎の桜」で有名なだけでございますが、江戸時代にも前田さまの領地で、加賀百万石の米を上方に輸送する中継基地になっていたところです。

▲海津大崎の桜 出典:PIXTA

このとき、『信長公記』によれば、信長さまは「長政はお市の夫であるし、湖北三郡を任せてやったのに何が不足なのか」と納得がいかないふうでございました。

岐阜にいた私たちにとっても、浅井長政さまが織田方と決別されたことは、びっくり仰天でございました。しかしながら「ありえない!」というほどではなかったのです。

信長さまの朝倉攻めで、浅井家中で面目丸つぶれになったのは、他の誰よりもお市の方の夫である浅井備前守長政さまだったのでございます。

もちろん、織田と朝倉の共通の主君だった斯波氏を挟んでの長い因縁や、このところ雲行きが怪しいことも知ってはおりましたが、なんとか両者の対決にならないように仲介しようとも思っていたのに、なんの相談もなく、いきなり信長さまが攻撃を仕掛けたのです。

信長さまは、朝倉とも関係が深い浅井としては、相談すれば反対するだろうと思われ、あえて浅井氏に出兵を要求せず、相談もしなかったのでございましょう。しかし、長政さまにとっては馬鹿にされたような気分でございました。

そもそも、義昭さまの上洛のときから、浅井氏は兵を出すなど十二分の協力をしたのに、特段の見返りもないという気分もございました。たしかに信長さまは、もともとそれほど安定していなかった江北三郡の支配を、盤石になるように保証してくださいました。

それに対して、浅井は徳川のように死にものぐるいで信長さまに尽くしているというわけでない、という評価の差もございました。ですので、浅井氏にはそれ以上の領地をくださらなかったのでしょう。

しかし、浅井の方では、信長さまの娘、徳姫さまを長男信康さまの正室に迎えた徳川家康さまが、遠江一国の支配を認められたのですから、近江のうちいくつかの郡くらいはくれてもいいという思いはあったのでございましょう。

それに微妙な問題として、室町幕府の方から見ると浅井氏は京極氏の家来であって陪臣だという建前もあり、序列が低く扱われているという不満もございました。

しかも、織田と朝倉が争うと、越前と国境を接する湖北三郡は朝倉の攻撃にさらされることになりますから、浅井氏としては困るわけで、もし信長さまが越前を攻撃されるというなら、朝倉につくべしという久政さまなどの声が勢いを増しました。

もともと、浅井と朝倉は同盟したり対立したりを繰り返しておりましたし、恩義があるというほどではございませんでしたが、全般的には悪い関係でありませんでした。そして、朝倉と親しい家臣も多かったのでございます。

浅井家中では、若い長政さまは、美しいお市さまを溺愛するあまり、浅井には見返りもなく大事にもされず、いいように便利に使われて戦死者も出しているし、浅井の家臣たちを馬鹿にしたような態度を、織田の家中の者たちからとられているという不満もありました。

この戦に浅井家が参加していたら、恩賞も期待できますが、それもないわけですから当然です。しかも、いま信長さまの背後をついたら勝利は間違いなく、かねてから狙っていた近江高島郡あたりはとれそうな気配でございました。

こうして、まだ26歳と若い長政さまにすれば、家中から総スカンをくったような状態で、最後は父親でご隠居様の久政さまから命令されて、海津に兵を出したのでございます。

お市が信長に危険を知らせた逸話は創作?

といっても、信長さまを討とうとまでしたのかはわかりません。あるいは、信長軍を攻撃までしたのは、現場の独走だったのかも知れません。

というのは、このあとも、お市さまが浅井家に留まっているのが謎なのでございます。浅井氏としては、信長さまと完全に絶縁するつもりだったのではなかったのかもしれません。

このときに、お市さまが空け口のない袋に入った豆を信長さまに送って危険を知らせた、などという伝説もございますが、信長さまは浅井の攻撃があったときに驚いて呆然としたと記録されていますから、事実ではなさそうでございます。

▲信長が撤退を決断した福井県敦賀市の金ヶ崎城址 出典:PIXTA

信長さまは、すぐに京都へ逃げ帰ることを決意され、琵琶湖に面した北国街道〔西回りと東回りがありますが、ここでは西回り〕を避けて、比良山の裏側の安曇川上流から花折〔活断層である花折断層や鯖寿司で有名です〕へ、それから途中〔固有名詞です。「途中行き」というバスがかつてあったので、漫才のような逸話がたくさんあります〕を通って八瀬大原に抜ける裏街道を選択されました。

この段取りを、この辺りを支配していた朽木氏とつけたのは、知恵者の松永久秀さまでございます。朽木氏は近江源氏の一党で近江の小領主ですが、同時に幕府奉公衆としての有力者で、足利将軍が京で苦境にたつと領内でたびたび隠れ場所を提供してきた家柄です。

浅井氏にも誼(よしみ)を通じてはおりましたが、このときは、松永さまの説得で信長さまの逃亡と、織田軍の京への撤退を手はずに協力されたのです。