信長を実の父のように慕っていた義昭

足利義昭さまと織田信長さまの関係がおかしくなったのは、いつからかということについては、いろいろなことを言われる方がおられます。

昭和のころの研究者の方の間では、永禄11年(1568年)に上洛した翌年からだ、と言うような方が多かったようです。しかし、それは藤吉郎から聞いていた話と違いますし、平成や令和の学者さんたちは違う見方をする方が多いと思います。

本国寺の変のあと、永禄12年(1569年) 1月14日に『殿中御掟9か条』、その2日後には7か条が追加されております。しかし、内容は将軍に会うとか陳情する、御所に出入りするなどのときのルールを定めた当たり前の内容です。

義昭さま自身は、それこそ、信長さまを実の父上のように大事にされていたのでございます。

その証拠に、信長さまが、二条城が出来上がったのちの永禄12年8月にいったん岐阜へ戻られるときには、二条城を出られて、三条通の白川に架かる橋あたりにあった粟田口(地下鉄東山駅付近)まで同行されて名残を惜しまれたほどで、信長さまも藤吉郎も恐れ多いことだと感激していたくらいです。

しかし、困りものは、義昭さまの周辺にいる幕府奉公衆といわれる室町幕府の官僚たちや、その取り巻きで、本当に食わせ者ばかりでございました。義昭さまの名前を使って勝手気ままに利益を得ようとし、とくに、公家衆や寺社の領地など横領し放題でしたし、あちこちの大名に信長さまやその家来である藤吉郎などの悪口を書き送ったりいたしました。

京の奉行だった藤吉郎などは、義昭さまに直接にお話しするというのも難しく、明智光秀さまなどに助けられながら苦労しておりました。「前例がない」「忘れた」「勘違いだった」「京の流儀は守ってもらわないと」とか言いたい放題です。それこそ、あの「ぶぶ漬け」の世界でございました。

▲京都といえばぶぶ漬け(お茶漬け)  イメージ:PIXTA

自分は“卑しい”と開き直った秀吉はかえって人気者に

逆に、なまじ室町幕府の流儀がわかっている織田家代々の重臣たちは、彼らのペースにハマってしまいましたが、藤吉郎のように自分は“生まれ卑しき者”と開き直ってしまうと、幕府の“うるさ型”はかえってやりにくそうだったそうです。

それだけでなく、藤吉郎は名古屋人らしく豪華な贈り物をして籠絡するとか、面倒な相手の周辺に間諜を潜り込ませて弱みをさぐるとかは得意でございました。

また、弟の小一郎(のちの秀長)はといえば、難しい交渉を粘り強く双方が納得できるような妙案を、たとえば、片方には名を、他方には実をとか。片方には土地を、もう一方には現金を、といったように塩梅するのに秀でておりましたから、おのずと、藤吉郎や小一郎のところに、相談に来る人々も増えてきたのです。

信長さまは、8月に岐阜に帰られたのち、美濃や伊勢の知行の割り当てなどをされました。そのあと、南伊勢の国司である北畠家を攻められ、これには藤吉郎もいっとき京を離れて参加いたしました。

結局、信長さまの次男で亡くなった吉乃さまのお子様でおられる茶筅丸(信雄)さまを、北畠家の養子にするということで話がまとまりました。このときに、滝川一益さまは安濃津のお城を、信長さまの弟である織田信包さまは上野(伊賀市でなく津市)のお城をもらわれたのでございます。また、このときには伊勢神宮に参拝されました。

▲安濃津城 丑寅櫓 出典:PIXTA

そして、信長さまは10月に、近江との国境の千草峠(三重県菰野町と滋賀県東近江市永源寺町甲津畑を結んでいた街道)を通って、伊勢平定の報告に京に戻られたのでございますが、ここで義昭さま周辺と気まずいことがあって岐阜に戻ってしまわれました。

そして、翌年の永禄13年(1569年)1月には、義昭さまに書状を送り「今後は、信長さまの添え状と一緒でなければ、勝手に内書をださないように」「信長さまは義昭さまから天下のことは任せられているのだから添え状なしに指示ができる」「天下が静逸になったのだから朝廷の儀式などに将軍は参加すべき」などとした、『殿中御掟9か条』を義昭さまが定められることになりました。

奉公衆が勝手に義昭さまの了解を得たといって、勝手な内書を出していたのを止めるためでございましたし、ほかの内容も義昭さまを咎め立てるようなものでなく、義昭さまと信長さまが対立されたということではありませんでした。

そして、信長さまは畿内周辺21か国の諸大名に、義昭さまの名で上洛を要求されたのです。これに德川家康さま、松永久秀さま、三好義継さま、さらには、畠山昭髙さまと髙政さま(河内)、姉小路自綱さま(飛騨)、北畠具房さま、宇喜多直家さま、京極髙吉さまといった諸侯が応じられ、さらに、豊後の大友宗麟さまからまで、お祝いの使いがやって来たのでございました。