足利将軍からの男色にキレた結果・・・
くじ引きによって6代将軍に選ばれた足利義教は、将軍就任前、まだ義円と名乗っていた1419年に、宗教界のトップである天台座主(てんだいざす)となっています。
しかし、親の七光ではなく「天台開闢(かいびゃく)以来の逸材」と呼ばれるくらいの実力も才能も持った人でした。そして、義教もまた、僧籍にあるときにもエピソードが残るくらいの男色将軍でした。
そんな義教のお相手が、またもや赤松家の傍流の赤松貞村です。
『嘉吉記』には「赤松伊豆守貞村、男色ノ寵比類ナシ」とあります。そして、1441年に「赤松家家督ヲ継グベキ者ハ此人(このひと)ナルベシト仰セテ、三ケ国ヲ賜ハン御教書ヲ……」、要するに、またまた、播磨・備前・美作の3ヶ国を義教は貞村に与えようとします。そして、このときの赤松家の惣領(そうりょう)も、やはり満祐です。
ここまでくれば「なんかオレ、受難の相でもあるのか?」と疑うレベルです……。
ここにきて、満祐はキレました。1442年、関東で反乱があり、それを義教が破ります(結城合戦)。その戦勝祝いに赤松家に招待された義教は、赤松邸で、満祐の刺客によって討たれました、49歳でした。
このとき、多くの義教に同行した人たちが奮戦しましたが、斬り殺されたり重傷を負いました。そして、その1ヶ月後には、満祐も山名持豊(もちとよ、後の宗全)の幕府軍によって討たれます、これを嘉吉の変と言います。
この状況を見て、伏見宮貞成親王後崇光院(ごすこういん)は『看聞日記』で「自業自得果、力無キ事カ。将軍、此ノ如キ犬死」(高坂好『人物叢書 赤松円心・満祐』吉川弘文館、1970年)と冷徹に言い放っています。
※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。