自ら「オカマ」と名乗る山口志穂が語る「オカマのワクワク日本史」。現代でも有名な藤原家は、実は男色が多かったと山口氏は語ります。なかでも藤原頼長が書いた日記には「いつもはボクが攻めなのに、初めてボク、犯されちゃった!」など、夜の生活が赤裸々に書かれているそう。オカマの目線で見ると、歴史の新しい側面が見えてくる!

藤原頼長の書いた『台記』は淫乱日記!

白河法皇、鳥羽上皇の男色は、藤原氏の中では傍流の家柄の者に行われていました。それに対して藤原頼長は、道長、頼通からの本流の家柄です。

頼長には、関白を務める忠通(ただみち)(1097~1164年)という兄がおり、年齢は23歳も離れていました。父の藤原忠実(ただざね)は才色兼備の頼長を溺愛して、忠通を嫌っていたため、鳥羽上皇に忠通の関白を取り上げるように訴えますが、それが叶わないとなると、忠通から氏の長者(藤氏長者、藤原氏の家長)を取り上げて頼長に渡します。

これを現代で例えれば、兄は総理大臣として政府内では上座でも、本家に帰れば家長は弟ですから下座に置かれるという屈辱を味わわないといけないということです。そして、こうしたことが後々、両者の対立になっていきます。

▲藤原頼長像 出典:ウィキメディア・コモンズ

そんな頼長の書いた日記が『台記』なのですが、当時の日記は、自分の子孫に儀式の作法や宮中のしきたりなどを伝える意味もあり、特に氏の長者の決まりでもありました。しかし、約19年にわたるこの日記には、それ以外に自身の夜の生活も赤裸々に書かれています。代表的な事例を3つほど。

その1

鳥羽上皇と男色関係にあった藤原家成(母方の叔父)に育てられた藤原忠雅とは、1142年7月5日に「今夜於内辺、会交成三品年来本意遂了」、1142年11月23日には「深更向或所、彼人始犯余、不敵々々」とあります。[五味文彦『院政期社会の研究』山川出版社/1984年]

要するに「今夜、忠雅とヤっちゃった、年来の悲願を遂げたョ!」と言ってますし、その2年後には「いつもはボクが攻め(タチ)なのに、初めてボク、犯されちゃった! 不敵なヤツめ!」とはしゃいでいて、身分も年齢も上の頼長が倒錯的になる様子まで赤裸々に記しています。

▲藤原忠雅 出典:ウィキメディア・コモンズ

その2

家成の子の藤原隆季(たかすえ)とは、1146年5月3日に「子刻会合或人讚 遂本意了」だそうです。訳せば「夜の11時くらいに隆季が来てくれて、やっと関係が持てた!」です。頼長は、隆季との関係を持つために、すでに関係を持ってる忠雅を仲介して関係を迫り、隆季に断られると願掛けまで行っています。

その3

隆季の弟の讚丸、後の藤原成親(なりちか)とは、1152年8月24日に「亥時許、讚丸来、気味其切、遂俱精漏、希有事也、此人常有此事、感歎尤深」とあります。「夜の10時くらいに讃丸が来た。讃丸は、ボクにずっと一途なんだよネ。そんで一緒にイッちゃったんだ。こんなことはあんまりないけど、ボクたちはいつもそう!」と満足そうです。

ちなみに、同時に射精することをトコロテンと言います。攻めている側も攻められている側も、同時に射精する、男色の醍醐味(だいごみ)です。頼長、うれしそうに「讚丸クンとは、トコロテンをいつもやってるよ」と自慢げに日記に残しています。

頼長の日記には7人の男色相手が書かれていますが、他に藤原家明もいて、この人は隆季、成親の兄弟です。つまり、7人中4人が藤原家成の子どもと縁者です。

それにしても、どうして頼長は家成の関係者を集中的に狙ねらっているのでしょうか。それは単なる趣味ではなく、男色自体が重要な政治なのです。

そもそも院の近臣とはなんだったのかを考えればわかります。院の近臣は、側近グループとして院政を支えるだけでなく、藤原摂関家への牽制の役割もあります。ですから、院の近臣と藤原摂関家は対立する運命にありました。

だから、頼長の男色相手が院の近臣の藤原家成の息子たちや関係者なのです(図2参照)。つまり、これは頼長による鳥羽上皇側近グループに対する切り崩し工作です。男色によって自身のネットワークを拡げ、多数派工作をしていたのです。これを私は「男色ネットワーク」と名付けます。

▲藤原家 男色ネットワーク(『オカマの日本史』より)

1151年9月、そんな頼長に、鳥羽法皇(1142年出家)が不信感を抱く決定的な事件が起こります。頼長が、藤原家成の家を通ったとき、秦公春という頼長と男色関係にあるボディーガードに命じて、乱入の上で、乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を働く事件を起こしました。

一応、頼長にも言い分はあり、以前、頼長の2人の従者が家成の家来によって辱しめを受けており、その報復でした。

ちなみに、この従者も頼長の男色相手です、要するに、愛する従者が辱しめを受けたことへの報復です。

これを聞いた鳥羽法皇は、頼長に不快感を示します、当然ですが。ここにおいて、鳥羽法皇に遠ざけられた同士の崇徳上皇と頼長が接近し、頼長は更なる男色ネットワーク作りに邁進(まいしん)したとなるわけで、こうして起こるのが保元の乱です。