「清須会議」メンバー決定のウラ側

天正10年(1582年)は、新年早々、秀吉は信長さまのお許しをいただき姫路城で茶会をし、3月には養子の於次丸秀勝の初陣を備前冠山城攻めで飾らせました。

また、秀吉は1月の終わりに、備前の宇喜多家の家臣たちを連れて信長さまのもとに参上し、秀家さまを正式に亡くなった忠家さまの後継者として認めてもらいました。その帰りに秀吉は長浜城にやってきて、秀勝とともに出陣したので、私は秀勝の旅立ちを武運長久を祈りながら見送らせていただきました。 

そして、秀吉が備中高松城(岡山市)を水攻めで囲んでいた6月2日に本能寺の変が起きました。そのあたりから山崎の戦い、そして私たちが長浜城を出て美濃の山奥に避難した話などは、この連載を初めた頃に紹介いたしました。

そこで今回は、織田家のこれからを話し合う清洲会議が開かれた6月27日あたりから再開ということになります。

▲清洲城模擬天守 出典:KEI1008 / PIXTA

この清洲会議については、信長さまの跡目を決める会議で、山崎の戦いにも参加した三男の信孝さまを推す柴田勝家さまに対して、秀吉たちが頼りない次男の信雄さまを推しては劣勢になりそうなので、信忠さまの忘れ形見で3歳の三法師さまを擁立した、という話をお聞きになっていると思います。

しかし、織田家の家督は、とっくの昔に信忠さまに譲られていたので、この会議では三法師さまが家督を継がれるのは当然として、誰が補佐するか、織田家全体の差配をどういう仕組みでしていくか、それが議題でございました。

本来ならば、こうした会議は、秀吉のほか、柴田・丹羽・佐久間・滝川・明智といった家臣の方々がメンバーとなるはずでした。しかし、佐久間信盛さまは追放され、明智光秀さまは謀反を起こして非業の死を遂げられていました。

滝川一益さまは、本能寺の変のときは、武田領だった上野国の西部と信濃の佐久郡をもらい、関東管領として上野国の厩橋(前橋)城で、北条氏に睨みを利かしておりました。

しかし、本能寺の変を聞いた北条軍が攻勢に出てきたので、神流川の戦いで敗れ、這々の体で本領の伊勢長島城に逃げ帰られたばかりでした。

そうなると、秀吉と柴田さま、丹羽長秀さまの3人だけになるので、摂津兵庫城主で山崎の戦いでも活躍した池田恒興さまもメンバーに入れようということになりました。信長さまの乳母の子で、信長さまの家族同然というのも好都合だったのです。信雄さまと信孝さまは呼ばれませんでした。

山崎の戦いでの中国大返しで畿内に戻ってきた秀吉や、その応援に先行的に来ていた堀秀政さまに、四国攻めのために大阪に集結していた信孝さま、丹羽さま、それに摂津に基盤をもつ池田さま、中川清秀さま、高山右近さまらが加わったのです。

この会議のときは、信孝さまと秀吉は悪い関係ではありませんでした。そのあと、信孝さまは美濃に入って斎藤家残党に乗っ取られた岐阜城を取り戻したり大活躍でしたし、京の治安維持にも関与されました。

不穏な動きを見せる信孝の黒幕は柴田勝家

一方、信雄さまは伊勢で混乱を抑えるのが精一杯で、そのあと、鈴鹿峠を越えて土山までやってこられましたが、明智軍と戦うことなく、明智軍が退去したあとの安土城に入り、噂によるとこれを焼いてしまわれたという不始末でした。

もともと、信雄さまは早くに母を失い、お守り役が良くなかったのか、軽薄で、疑い深く残忍で、優れているのは歌舞音曲だけというような人物でした。父の了解もないまま伊賀を攻めて大失敗し、織田家中でも「三介殿のされることよ」と呆れられていたといいます。

領地の配分については、信孝さまはそれまでの北伊勢に加え美濃一国を、信雄さまは南伊勢や伊賀に加え尾張一国をもらわれました。そして、秀吉は山城・丹波・河内半国をいただきました。その代わりとして、柴田さまに長浜城と湖北三郡を渡すことになりました。

柴田さまは、本能寺の変のときには、越中の魚津で上杉軍と向かい合っておられて帰国が遅れ、何もできなかったのですが、秀吉が多くの領国を得ることを承知する代わりに、“せめて”ということで長浜城を差し上げることを秀吉も受け入れました。ただ、これによって信孝さまの美濃と領地が隣り合うことになり、のちにこれが原因で面倒なことになります。

丹羽さまは、これまでの若狭国に加えて、近江の滋賀郡と高島郡を手に入れられ、坂本城に入られました。つまり、大津から小浜まで細長い領地です。そして、池田さまは大坂城に入られました。

▲安土城跡にある信長の次男、信雄公ほか4代の供養塔 出典:k-hiro / PIXTA

三法師さまの守り役には、佐和山城主の堀秀政がなり、とりあえず避難先の清洲城から岐阜城に戻るが、準備ができれば安土城に移っていただくと、さほど揉めることなく決まったのでございます。

ただ、このあと信孝さまは、安土城に仮の御殿ができて引っ越せるようになっても、三法師さまを岐阜に留め置いて、実質上の後見役になろうと野心を見せられました。また、京で織田家の継承者のような書状を出したりしたので、秀吉は警戒するようになったのですが、信孝さまの黒幕が柴田勝家さまだったのでややこしいことになりました。