秀吉の領国が増えて家臣も城持ちに

東播磨での三木城攻めは、結局のところ、1年と10か月もかかりました。別所長治さまが反織田を宣言されたのが天正6年(1578年)2月で、三木城を秀吉たちが包囲し始めたのは3月でございます。

毛利軍が東播磨の加古川に上陸しようとしたのは、黒田官兵衛さまが撃退してくれました。4月には毛利輝元さまご自身が大軍を率いて、山中鹿之助さまたち尼子勢が守る西播磨の上月城を攻め、秀吉は救援に向かいましたが、信長さまの命令でこれを見捨てざるを得なくなったことはお話しした通りです。

その一方、織田信忠さまたちが援軍に駆けつけてくださって、三木城とともに毛利に寝返った神吉城と志方城(いずれも加古川市)を落城させることができました。ところが、10月に伊丹有岡城の荒木村重さまが信長さまに叛かれたのでございます。

その間に、黒田官兵衛さまが荒木村重さまに囚われたり、竹中半兵衛さまが天正7年(1579年)6月に陣中で労咳のために亡くなられたりしましたが、兵糧攻めがようやく効果を現して、天正8年(1580年)1月17日に別所長治さまは降伏され、切腹されました。

こののち、秀吉は信長さまから播磨の大部分(西部の赤穂・佐用郡以外)と但馬を湖北三郡と同じように領国として扱うことを認められ、検地をしたり、家臣や国衆に知行を与えたりしました。

検地といっても、のちの太閤検地のように、すべての農地を測量してというわけではなく、領主などの申告ですが、奉行たちも近江で経験を積んでいるので目が節穴ではございません。のちの時代の方が実際に測量したのと、それほど大きな違いはないことが普通だそうです。

なにしろ、当時の近江は経済の先進地域でございましたから、たとえば、複式簿記の考え方まで始まっておりました。そういうノウハウは、のちの天下統一にもおおいに役だったのでございます。

知行については、湖北では秀吉が自由にできる土地が限られておりましたので、主だった者たちにも、百石単位でしか配分できませんでした。しかし、播磨では千石を超える領地を分け与えて、これまでの苦労に報いることができました。若い頃からの盟友である蜂須賀小六さまが、竜野城主になったのもこのときです。

姫路城は、もともと黒田官兵衛さまの居城だったのを改修して使っておりましたが、本格的な築城に乗り出しました。姫山と鷺山を一緒に石垣で囲んだもので、三層の天守閣も築きました。関ケ原の戦いのあと池田輝政さまが作り直して、真っ白な層塗り籠め式の白鷺城といわれて世界遺産になっている、今の天守閣と場所は同じですが、古材は乾小天守などに再利用しておりますし、石垣の中にはそのまま使われている部分もございます。

▲姫路城 出典:PIXTA

ただ、残念なことに、私自身は長浜城にずっと住んでおりましたので、このお城を見たことはないのです。

地獄絵図だった鳥取城の兵糧攻め

播磨を統一したのちに秀吉が向かったのは、因幡の鳥取城攻めでございました。若桜城などを落とし、鹿野城には尼子旧臣の亀井茲矩さまを入れ、伯耆羽衣石城の南条元続も従われることになり、鳥取城を囲んだところ、城主の山名豊国はあっさりと城を出て降伏されたので、領地を安堵されました。秀吉としても信長さまとしても、名門山名家には利用価値があるとみたのでございましょう。

しかし、家来たちは気が収まらず、山名豊国さまを追放して、毛利家から吉川経家さまを城主に迎え入れて抵抗いたしました。そこで、秀吉は7月には鳥取城を包囲し、兵糧攻めにかかりました。このときは、三木城攻略に時間がかかった反省から、いろんな工夫をしたそうでございます。

▲鳥取城跡 出典:PIXTA

たとえば、秀吉の自慢話ですから本当かどうかわかりませんが、若狭から商人を因幡に行かせて「若狭は米不足だ、などと偽って高値で米を買い集めさせた」とか言っておりました。そうでなくとも、夏のことですから、いちばん蓄えがないときに包囲が始まったので、9月には早くも餓死者が出始め、10月25日には降伏して吉川さまは切腹されました。

なにしろ、牛馬はもちろん死人の肉まで食べたとか、開城して出てきた兵士に食べ物を与えたら、一気に食べ過ぎて死んだ者が多かったとか、本当に生き地獄だったようでございます。

こうして因幡も片付けた秀吉は、宇喜多さまを助けて、毛利さまの直接支配する、備中を攻めにかかります。

備前では、その前年、天正9年(1581年)2月に、あの策略家の宇喜多直家さまが亡くなっていました。大腸かなにかの癌だったようです。しかし、この死は翌年の正月までは隠されました。

秀吉は、正月に姫路城で茶会を催したのち、その月の終わりに、宇喜多一党を連れて安土城の信長さまのもとを訪れ、まだ10歳だった宇喜多秀家さまの本領安堵を約束してもらいました。

そして、3月からは備中攻めを始めて、いくつもの城を落とすと、毛利元就の娘婿である上原元祐や瀬戸内の水軍が織田方に寝返りました。そして、5月に入ると清水宗治の高松城(岡山市)を囲み、足守川の流れをせき止めて水攻めを始めました。

そして、翌天正10年(1582年)に何が起こったかは、皆さまご存じの「本能寺の変」でございます。織田家の跡目を決める清洲会議については、次回からお話を始めたいと思いますが、その前に、信長さまをめぐる最後の数年の動きで、まだお話ししていなかったことをまとめてお話ししておきます。