秀頼と茶々が自害に至るまでの道筋

関ケ原の戦いがあったのが、慶長5年(1600年)のことで、大坂夏の陣で秀頼と茶々が自害したのは慶長20年(1615年)5月28日でございます。

そのあいだに、德川家康さまが慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任され、その2年後には秀忠が二代目将軍になっておりました。千姫が秀頼のもとに嫁いだのも、その年です。

秀頼や茶々が上洛することは、その頃はありませんでしたが、私は毎年、1度か2度は下坂して両人と会って親密な関係でおりました。

秀頼には、秀忠が二代将軍になったときに上洛するように家康さまから勧めがあり、私も大坂へ行って勧めたのですが、茶々は嫌がりました。しかし、慶長16年(1611年)に家康さまの強い希望を受け、加藤清正たちが上洛するように茶々を説得して、二条城で家康さまと秀頼は会見いたしました。

▲加藤清正像 出典:yukarinpapa / PIXTA

ところが、この頃から豊臣恩顧の武将たちが次々に死んでしまい、それが慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして、その翌年の夏の陣ということになってしまいました。

このあいだの出来事は、私も世の中の動きの中心から少し離れたところにおりましたし、慶長13年(1608年)には京で一緒に住んで支えてくれた兄の家定が亡くなり、慶長19年(1614年)には頼りにしていた秘書役の孝蔵主が私の元を去ったといったこともあり、私の記憶も断片的になります。

この連載は、いずれ電子ブックになるそうですから、もう少し思い出したり友人たちに聞いたりして、その際には補いたいと思っております。また、私と秀吉の生涯や創ってきた歴史についても、戦国の女としての私なりの総括もしてみたいと思います。

そこで今回と次回は、この期間の出来事を駆け足で振り返り、世間での誤解があるところについて、私の意見を申し上げておきたいと思います。

浅井三姉妹を警戒する家康

家康さまが慶長8年(1603年)に征夷大将軍になられたことは、誰にとってもそれほど意外なことではありませんでした。足利義昭さまは元亀4年(1573年)に京都を追われてしまいましたが、とくに、将軍でなくなったというわけではありませんでした。しかし、秀吉より1年前に亡くなり、その子の義尋さまは出家されていたので、足利宗家は跡取りがいなくなってしまいました。

また、源氏氏長者(げんじうじのちょうじゃ)というのは、村上源氏の久我家から出ていたのが、足利義満さまが将軍のときに足利家に移っていたのですが、これも空席になっていました。

そうなると、源氏でもっとも官位が高いのは家康さまですから、氏長者となられることはおかしくありませんし、東日本をほぼ治めておられるのですから、坂上田村麻呂さまなどの前例をひもとき、征夷大将軍を名乗られるのは自然なことでございます。

そんなわけで、天下人になるかどうかは別として、家康さまが将軍となられるのは、豊臣家を不安にさせることではありましたが、それほど驚天動地といったことではありませんでした。

このとき、世間では同時に秀頼が関白となられるのではないかという噂もあり、公家衆で日記に書かれている方もおります。つまり、徳川家が将軍で、豊臣家が関白というのは、公家衆の感覚として何もおかしいことではなかったのでございます。

残念ながら、このときに秀頼が関白になるということは実現しませんでしたが、内大臣に昇任したのですから、いずれはという希望はつながったのです。また、かねてより話があった千姫の輿入れが実現いたしました。

秀頼が11歳、千姫が7歳ですから夫婦としての実態があろうはずもなく、婚約に近いものです。茶々としてはとてもうれしいことでしたし、私も少し安堵いたしました。

ただ残念だったのは、母親の江が身重の体にも関わらず、江戸から千姫に付き添って上洛したのですが、伏見で家康さまに大坂まで行くことは止められてしまいました。

いろいろ前例など持ち出されたのですが、姉妹で話をされることを嫌われたのでしょう。ともかく、家康さまは三姉妹に振り回されることを、とても警戒されておられたのです。

お江はそのまま伏見城にとどまり、そこで4番目の子を出産しました。このとき、京極の初(浅井三姉妹の次女)は、もし女の子だったら養女に欲しいと申しておりましたから、姫が誕生したのでそのまま引き取ることになりました。

出雲の阿国という女性が、六条河原で念仏踊りを披露してたいへんな評判をとったのは、この年のことでございます。これが歌舞伎発祥と、のちの世に言われるようになる事件ですが、そのときは誰もそんなことは考えませんでした。

▲「出雲の阿国」の像(四条大橋 東詰北/京都市東山区) 出典:skipinof / PIXTA