秀吉のお気に入りだった石田三成の功労

石田三成についてお話ししましょう。秀吉が長浜城主になって間もない頃、鷹狩りにでかけたときに、観音寺(米原市の大原観音寺説が有力)という寺院で小僧をしていた少年が、気が利いて利発そうだというので、小姓に採用したのです。その名を佐吉と言いました。地元の地侍の子で、そのころは学校もありませんから、寺の手伝いをしつつ、読み書きなどを習っていたのです(1560年生まれ)。

この出会いの様子を、再現した銅像がJRの長浜駅前にございます。のどが渇いていた秀吉が、出てきた少年に茶を所望すると、大きめの茶碗に“ぬるめのお茶”を入れて出しました。すぐに飲み干してしまった秀吉は、もう一杯頼みます。すると、今度は茶碗半分ほどに先ほどよりも“やや熱いお茶”が出てきました。

秀吉が面白がって、さらにもう一杯頼むと、出てきたのは小さな茶碗に入った“熱いお茶”だったというのです。これを「三献の茶」といいます。

少し脚色されておりますが、気の利いた振る舞いをする、いかにも聡明そうな少年を見て、気に入って召し出したと、よく似た話を秀吉から聞きましたから本当です。

▲秀吉と三成の出会いを再現した「出逢い」の像 出典:ケイセイ / PIXTA

同じ頃に、尾張から呼び寄せた同年代の少年たちに、蜂須賀家政(1558年生まれ)、福島正則(1561年)、加藤清正(1562年)などがいました。

近江出身では脇坂安治(1554年)、藤堂高虎(1556年)、片桐且元(1558年)などもおりましたが、彼らは秀吉に仕える前に浅井家臣として戦場にも出ていた人たちですので、少し違います。

私が親しかったのは尾張衆で、茶々のまわりには近江衆が集っていたと言う人もおられますが、それは違います。むしろ、清正だとか正則は義母のなか(大政所)の縁者ですから、関係が少し間接的なのです。

とくに三成は、いわば新入社員として私の元に入ってきたのですから、本当に私の子飼いといったところです。しかも、最初から読み書きもできましたし、利発でしたから、とても重宝したのです。

例えてみれば、読者の皆さんの年代で言えば、高卒の夫婦が会社をつくって、初めて大卒の社員を採用したら、それがたまたまスマートで、出来がよかったので可愛がったといったイメージでしょうか。

また、私のまわりの女性たちも近江の人が多いのです。よく話に出てくる秘書のような孝蔵主もそうですし、東殿も大谷吉継の母ですし、三成の娘も私の側におりました。

長浜では、秀吉が戦場に出て不在のときは、私がいろいろ差配しなくてはならないことがありました。そんなときに、地元の事情に通じた家臣や地元の有力者、それに女性たちの助けが大事でしたので、近江衆と私の結びつきは強くなったのでございます。

一方、茶々が近江衆と親しかったかと言えばそうでもないのです。小谷落城のとき茶々は5歳くらいですから、たいへんなことが起きたと言う記憶があっただけです。その後は、ずっと織田家で育ったわけですし、織田の縁者として秀吉の側室になったわけですから、周囲に集まっていたのはむしろ織田家や尾張の人々でした。いちばんの側近で、かつて乳母だった大蔵卿局、つまり大野治長の母親にしても尾張の人です。

三成は、秀吉の近習として認められ、やがて大臣の補佐官か、企業の社長室のスタッフのような役割を果たすようになりました。とくに、賤ヶ岳の戦いのときには、長浜周辺で諜報活動とか物資の手配などを見事に取り計らい、秀吉を満足させました。

その後も、大名と豊臣政権との窓口(取り次ぎ)として辣腕を振るい、やがて、秀長とか千利休さまのような、組織の論理を超えた実力者がいなくなると、いわば官僚組織を束ねる官房副長官に近い仕事をするようになりました。

 秀吉は戦いに明け暮れ、権謀術数のなかで生きてきた人ですから、資料をじっくり見るとか、物事を論理的に整理して考えるわけではありません。ただ、頭の良い人ですから、三成などが綺麗に整理してこうしたいと言えば、よく理解しましたし、「三成は、わしがこうしたいということを、先回りして考えて教えてくれる」とか「わしの次ぎに頭がいい」とか申しておりました。

また、秀吉に信頼されておればこそですが、機嫌の悪いときには無理をせず、折を見て説得するのが上手でした。

ただ、古いタイプの家臣たちからすれば、急成長会社の総務部長のように煙たがられる存在でございました。営業部隊が勝手気ままに仕事をするのを、経営計画が必要だ、書類を整えろ、交際費を使いすぎるな、などとチェックを入れるのが仕事ですから、どうしても嫌われるのです。

また、上杉さまのところの直江兼続さまとか、島津さまのところの伊集院忠棟といった、頭のいい家老を好んで窓口にしたので、彼らが家内で増長してほかの重臣から嫌われ、忠棟などは、秀吉の死んだ翌年に主君の忠恒に謀殺されるということもございました。

天正13年(1585年)には、秀吉の関白就任に際して、従五位下・治部少輔となりましたが、これは朝廷や公家衆との交渉に当たっていたので、官位が必要だったからです。領地は美濃や伊勢に持っておりました。近江の秀吉の直轄地の管理を任され、佐和山城を早くから拠点としておりましたが、正式に湖北三郡を与えられて佐和山城主になったのは、文禄4年(1595年)のことです。

▲佐和山城跡 出典:papa88 / PIXTA

朝鮮にも秀吉の名代として派遣され、作戦の調整をすると共に、明軍を破った碧蹄館の戦いにも参加しました。和平については、小西行長や宗義智の言い分をよく聞き、現実路線で交渉をするのを助けました。

ただ、小西行長と手を組むということは、そのライバルである加藤清正と対立するということになりました。

秀吉の死んだあと、五大老の方々は相談し、まず朝鮮からの撤兵を決めました。この差配を見事にしたのも、三成です。三成の綿密な計画なくしては、多くの武将たちも無事に帰ることはできなかったでしょうから、命の恩人のはずです。

しかし、朝鮮から命からがら逃げて帰ってきた大名たちは、それまで軍監として厳しい勤務評定をし、また、いささか尊大な態度で諸将を迎えた三成に怒りをぶつけました。

博多の港で加藤清正を迎えたとき、三成が「御上洛なされましたら、茶会でも開き、おのおのがたをご招待しようと思っております」と言ったところ、「われらは長年朝鮮に在陣して苦労し兵糧一粒とて無く、内地でぬくぬくしておったそこもととは違い、茶など持たぬゆえに、ひえ粥ででもおもてなしいたそうか」と言い放ったといいます。