家康は信長を慕っていたのか?

家康と信長の関係性を見ていくと、どうやら家康は信長を信頼していたことが想像できます。その理由として、固く結ばれた信長との同盟関係があります。

桶狭間の戦いで今川義元が討死したあと、家康は今川氏との関係を断ち、信長と同盟を結びます。この信長との同盟は生涯にわたり強固に守られることになります。戦国時代では極めてめずらしいことです。

家康が尾張国に2年間滞在したとき、信長との交流があったことを先ほど説明しました。この2人の関係について述べた史料はありませんが、ドラマでは、信長によって家康は激しいイジメ?を受けていました。

しかし実際は、このときに家康と信長は信頼関係を築いたのではないか、と言われています。信長は家康を弟分として可愛がり、家康も信長を兄貴として慕ったため、この思いが強固な同盟関係としてつながったと考えられています。

▲三宝寺が所蔵する織田信長とされる肖像の複写写真 出典:Wikimedia Commons

戦において家康と信長はたびたび共闘し、多くの戦果を上げています。天正10年(1582)、家康と信長の連合軍は武田家を滅ぼし、甲斐国は織田領になります。

安土城に招かれた家康は、信長から相当な持てなしを受けたそうです。気をよくした信長は「京都と大阪へ旅行に行ったらどうか。ワシもあとで行くから、向こうでメシでも食べよう」と家康に提案します。武田家を滅ぼし、ホッとしている家康は了承しました。

家康が大阪の堺を見物しているとき、信長が本能寺で討たれたという情報が入ります。「本能寺の変」当日の午後、京都において家康は信長と会食する予定だったのです。兄貴である信長の死によって、家康はかなりのショックを受けたと伝えられています。

現時点において、信長は完全な悪役としての立場ですが、今後も悪役として貫かれるのか、それとも違う一面を見せるのでしょうか。そして本能寺の変は……。

今までのところ、家康は弱々しく、優柔不断なお坊ちゃまとして表現されています。これからドラマを通じて、どのように家康は成長していくのか。また瀬名との関係も気になります。次の放送に向けて、楽しみが募るばかりです。