NHK大河ドラマ『どうする家康』の第1・2回の放送が終了し、すでに多くの反響がSNSを中心に広がっています。大河ドラマのストーリーは史実に沿って進展するため、歴史の知識を深めると、ドラマをもっと楽しむことができます。

今回の記事では、第1・2回ではあまり描かれなかった徳川家康の幼少期、そして織田信長との関係性についてをピックアップし、歴史的な背景を説明したいと思います。

苦難に満ちた家康の幼少期

天文11年(1542)12月26日、松平元康こと家康は、三河国の大名である松平広忠の嫡男(長男)として生まれました。いわゆる「お坊ちゃま」ですが、幼少期における家康の人生は苦難に満ちたものでした。

家康の祖父である清康が家臣に殺されたことが、三河国が混乱するきっかけになります。清康が暗殺されたとき、家康の父・広忠は10歳でした。三河国の混乱に乗じて国境を接する尾張国は、三河国への侵入を繰り返すようになります。

このままでは国が保ちません。そこで三河国は、東の隣国である駿府国に保護を求めます。今川義元が率いる駿府国と、清康を失って混乱している三河国では、対等な同盟など結べるはずがありません。天文17年(1548)、6歳になった家康は、今川家の人質として駿府国に送られることになります。

「いずれは三河国を支配したいが、屈強な三河兵を敵に回すのは得策ではない。尾張国との戦で三河国を消耗させ、弱った段階で併合すればよい」

このとき、義元はこのように考えていたと思われます。

駿府国に行く家康を護衛したのが戸田康光という人物になります。この康光が悪者でした。陸路で駿府国に入るのが本来の計画でしたが、康光は当日になって船の移動に切り替えます。船が向かったのは駿河湾ではなく、尾張国の熱田でした。家康は拉致され、尾張国の大名である織田信秀に売り渡されてしまいました。ドラマ(第2回)でも、家康の護送・誘拐のシーンが描かれていました。

▲萬松寺所蔵の織田信秀木像 出典:Wikimedia Commons

家康を拉致した信秀は、家康の父・広忠に対して「尾張の味方になれ」という条件を提示します。すでに今川氏との同盟を済ましている広忠は信秀の提案を拒否。悲しいですが「子どもはまた作れるが、そもそも国が滅ぼされたら何も残らない」という判断だったのでしょう。

広忠の拒否を受けて信秀は激怒しましたが、いつか外交カードとして使えると考え、家康を生かしておくことにしました。家康は尾張に2年間留まることになります。このとき14歳になる信長と接点があったと思われます。

父・広忠は家康を断念しましたが、家臣の三河衆は家康の奪還を諦めませんでした。信秀の長男・信広がいる安祥(あんしょう)城を攻め落とし、信広を人質とすることに成功。交渉の末、信広と家康の人質交換に成功します。

駿府国の「植民地」になった三河国

三河国に戻ってきた家康ですが、すでに父である広忠は亡くなっています。24歳の若さでした。そして、本来なら人質になる予定だった駿府国に送られることになります。家康が正式に人質になったことで、言葉は悪いですが、三河国は駿府国の「完全な植民地」となったのです。

今川家から来た代官が岡崎城に入り、三河国の年貢を管理します。ドラマでは、岡崎城の代官である山田新右衛門として、お笑いコンビ・キャイ〜ンの天野ひろゆきさんが演じていました。天野さんは岡崎城がある岡崎市の出身です。

三河国で取れた米は、三河衆には行き渡らず駿府国に送られたため、三河衆はとても貧しい状態に置かれます。三河の人々が貧しい生活を送っている光景は、ドラマ(第1回)でも描かれていましたが、その原因は今川氏に年貢を横取りされていたからなのです。

しかし、この屈強をバネにした三河兵は抜群の強さを誇ります。三河兵1人は、尾張兵3人に匹敵すると言われたほどです。先ほども少し触れましたが、今川義元が三河国と同盟を結んだ理由は、三河兵を味方につけて酷使したかったからになります。

一方、今川氏の人質になった家康は、三河国では身に付かない教養を手にします。戦国屈指の軍師である太原雪斎(たいげんせっさい)から、家康は学問から軍略まですべてを学んでいます。

孔子の『論語』や孫氏の『兵法」など中国古典も読みこなしたため、戦国三英傑のなかでも漢文がすらすらと読める家康が、最も教養が高い人物になるでしょう。のちに徳川幕府を築き、約260年にも及ぶ「徳川の平和」を維持できたのは、家康の高い教養があってこそです。

『鎌倉殿の13人』の最終回では、冒頭シーンで書物を読む松本潤さん演じる家康がサプライズ出演しました。このとき読んでいたのは鎌倉時代を描いた『吾妻鏡』になります。家康の愛読書であり、家康の生涯にわたるヒーローは源頼朝だったそうです。「頼朝のように武士が主役となる幕府をいつか再現したい」。家康が小さな頃から抱いていた理想だったと言われています。