NHK大河ドラマ『どうする家康』の放送がスタートしました。「桶狭間の戦い」が描かれた第1話から怒涛の展開が続き、今後に期待を感じさせる内容でした。
ドラマの歴史を先取りすると、家康が築いた徳川幕府は約260年に及ぶ長期政権として、日本に君臨することになります。しかし19世紀後半、欧米列強による帝国主義の波に飲まれた徳川幕府は、結果として薩長連合に解体されることになります。
そして「大政奉還」「江戸城無血開城」という2大イベントを成功させ、実質的に徳川幕府を終わらせた人物が勝海舟です。時代の変化を敏感に察知し、壮大な視野を兼ね備えた勝は、大胆な政策(改革)を次々と実行していきます。しかし、明治時代になると、勝は政治の第一線からは身を引きます。
少子高齢化が急速に進みながらも、社会の世代交代が進まず、時代の変化に対応できない現代の日本社会。今回の記事では、日本が抱える課題を克服するヒントを得るため、勝海舟の人生を振り返りたいと思います。
勝海舟を採用した老中・阿部正弘の先見性
1853年6月、ペリーの来航によって日本の近代史は始まります。当時の幕府に対する評価は、アメリカの開国要求にあたふたするだけで、結局は武力に脅されて開国を許してしまった、という幕府無能説が主流です。
しかし、老中であった阿部正弘は、日本が今までのように鎖国を続けるのは不可能であることを理解していました。「日本は開国をして、欧米列強に学び、近代化に努めなければならない」と、すでに考えていたため、幕府は開国に踏み切ります。優秀な幕府側の人々は、この時点で日本の置かれている状況を客観的に把握できていたのです。
その証拠として、阿部は講武所や洋学所、長崎海軍伝習所など、日本の近代化につながる組織を立て続けに創設しています。講武所は日本陸軍、洋学所は東京大学、長崎海軍伝習所は日本海軍の前身となります。このときに長崎海軍伝習所のメンバーとして、勝が起用されました。阿部の先見性によって勝が採用されなければ、幕末における勝の活躍は存在しません。つまり明治維新のデザインを描いたのは阿部正弘とも言えるのです。
教科書に従うと、明治維新を成し遂げたのは、薩摩と長州というのが通説です。しかし歴史を詳しく見ていくと、最初の段階において、薩長は「尊王攘夷」を掲げていました。開国を選択した幕府に対して「売国である」とまくし立て、そのなかでも長州は幕府要人を暗殺するテロ活動を、天皇がいる京都で盛んに行っています。
そして、長州は馬関戦争、薩摩は薩英戦争によって、欧米列強にボコボコにされます。ここでようやく薩長は「攘夷は不可能」であることを悟るのです。しかし、振り上げた拳を下げることはプライドが許さないため、こっそりと「攘夷」だけは捨てて「尊王」は残し、幕府を倒す口実のために、薩長は天皇を担ぎ上げます。
幕末史が専門である半藤一利氏によると「幕府が敷いた近代化のレールに、薩長がちゃっかりとタダ乗りした」というのが、明治維新の実態になるそうです。
日本のためならば幕府がなくなってもかまわない
勝の思想を簡単にまとめると、以下のようになります。
「これからの日本は、幕府や藩など狭い視野に囚われてはいけない。自分たちの既得権益を越えて団結すべきで、将来の日本にとってメリットになるならば、幕府など潰れてもかまわない。一番ダメなのは日本人同士が殺し合うことだ」
勝は幕府を説き伏せて、1864年5月、神戸に海軍学校(海軍操練所)を設立します。幕府のお金で作った学校になるため、幕府の人間しか入学させないのが普通の考え方です。しかし勝は、身分など関係なく志のある若者を無条件に入学させます。メンバーの中には、脱藩浪人であった坂本龍馬も含まれていました。こうした懐の深さが勝の素晴らしいところです。
勝の思想は「大政奉還」にも生かされます。「幕府が持つ政治の権利を天皇にお返しする」という、平和的な政権移譲である大政奉還は龍馬のアイデアとされていますが、師匠である勝によって原型が築かれたと考えるのが自然です。
この政権移譲が実現すれば、日本人の被害を抑えることができます。勝は大政奉還を龍馬に託しました。そして龍馬は、故郷である土佐藩から大政奉還を提案させることに成功します。徳川慶喜がこの提案を受け入れることで、大政奉還(1867年10月)は実現したのです。
大政奉還を実現させて、これで日本人同士による無駄な争いはなくなる、と勝は考えました。しかし、勝の思いを理解できない薩長(新政府)は、あくまでも武力による幕府討伐を望み、江戸城への総攻撃を計画するのです。もし実施されたならば、多くの死傷者が出てしまいます。
1868年3月13日〜14日、総攻撃の直前に、勝は薩摩藩主の西郷隆盛と会談します。西郷とは、勝が神戸の海軍操練所にいたときに知り合った旧知の仲です。西郷は勝のことを「有能で、とても感動した」と絶賛し、勝も西郷の能力を高く評価していました。お互いのことを認め合う両者の会談はスムーズに進み、幕府が江戸城を明け渡すことで、江戸への総攻撃は中止になります。これが「江戸城無血開城」です。