いよいよクライマックスへと向かうNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。第45回「八幡宮の階段」では3代将軍・源実朝が、先代将軍・頼家の次男である公暁によって殺され、公暁もまた三浦義村によって殺されてしまった。これによって源頼朝の血脈は途絶えることになる。
次の鎌倉殿を誰にするか、北条義時を中心とした幕府と朝廷との思惑などが第46回「将軍になった女」では描かれることになるだろう。ここで重要なのが血筋や「氏」である。いくら北条氏が力を持っていても、将軍にはなれない。そこには、2023年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公である徳川家康も頭を悩ませた問題があった。
20代の徳川家康が、まだ弱小大名として生き残りをかけていた時代のエピソードを歴史家・濱田浩一郎氏が紹介します。
※本記事は、濱田浩一郎:著『家康クライシス -天下人の危機回避術-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
貴族になるため根回しをする家康
徳川家康こと松平元康は、1563年に自身の嫡男・竹千代(後の信康)と、尾張の織田信長の娘・徳姫との婚約を成立させたが、もう一つの、決断をしている。元康という名を「家康」に改めたのである。
元康という名は、その頃には既に敗死している駿河の今川義元の「元」の字を頂いて付けていた名前だ。その「元」の字を捨てたということは、今川との訣別をより一層、鮮明にした。
では「家康」の「家」という字は、何に由来するものなのだろうか。松平家の歴代当主の実名には「信光」「親忠」「清康」「広忠」などの名はあるものの、「家」の文字は見えない。1566年、家康は名字(苗字)を松平から徳川に改めているのだが、実はそこにヒントが隠されている。
徳川という名字の由来がどこにあるかというと、清和源氏の流れを汲む新田氏の庶流「得川氏」からきている。松平家が、新田義重の四男・得川義季に系譜上のつながりがあることを、家康は信じていた。徳川に名字を改めたのも、家康が自らのルーツを源氏(清和源氏)に求めていたからだ。
家康がまだ元康と名乗っていた時代の古文書が残されているが、そこには「源元康(花押)」と記されている。このことからも、家康が自らの血統を源氏と信じていたことが窺えるだろう。
話を「家」の字の由来に戻すと、家康は、平安時代後期の武将で、清和源氏の本流の祖と言われる「源義家」の「家」の字をもらったと考えられている。家康は1566年12月に、朝廷から従五位下・三河守に任命される。ちなみに、「従五位下」以上の位階を持つ者が貴族とされた。そして、この従五位下に叙位されることを叙爵(じょしゃく)といった。貴族の身分に連なることを意味したのである。
家康は「従五位下・三河守」という官位が欲しくて、朝廷に申請するのだが、直に頼んだわけではない。慶源という京都・誓願寺の僧侶を通して、関白・近衛前久に叙任申請を頼んだのだ。慶源は、誓願寺(浄土宗)住職・泰翁慶岳(たいおうけいがく)の弟子である。泰翁慶岳は三河岡崎の出身であるとされ、朝廷や室町幕府ともつながりがあった。慶岳は以前より、家康と京都(例えば将軍家)をつなぐ役割を果たしていた。
1561年3月28日、室町幕府13代将軍・足利義輝は、書状を慶岳に書いているが、そこには次のようにある。「この度、飛脚として使う馬を所望したが、松平元康は嵐鹿毛と名付けられた馬一疋(ぴき)を贈ってきた。これは喜ばしいことだ。比類のない働きに、驚いている。尾張の織田信長にも、馬を所望したが、未だ贈ってはこない。そうしたところに、松平氏の素早い対応は感心である」と。
ちなみに、将軍・足利義輝への献馬は、今川氏真は6月、信長は12月に行っている。そうしたことを思うとき、3月の段階でいち早く馬を将軍に献上している家康の対応は注目される。
氏素性がはっきりしていないと渋られる
家康は室町将軍の信頼を勝ち得たわけだが、その裏には、京都の情勢に通じた慶岳の情報提供や尽力があったと推測できる。そういった縁もあって、家康は「従五位下・三河守」の件についても、慶岳に相談したのだろう。しかし、慶岳は当時、三河国にいて、自らが京都に出向いて交渉することができない。そこで、弟子の慶源がその役割を代行することになったのだろう。
慶岳-慶源ラインが頼ったのが、関白・近衛前久であった。前久が慶岳に宛てた書状には「松平氏は昔、家来であったので、徳川改姓のことについても力を尽くそう」ということが書かれている。朝廷への申請は、武家であるならば、室町幕府の将軍を通して行われるものであるが、1565年に13代将軍・義輝は三好氏らによって殺害されていたので、将軍職は空位となっていた。よって、関白・近衛前久に働きかけることになったのだ。
前久は動いたが、正親町天皇は、氏素性のはっきりしていない者に「従五位下・三河守」を与えることはできないと当初、渋っていたようだ。そこで、神祇官の吉田兼右が万里小路家(までのこうじけ)にある古い記録から先例を探し出して、紙に写し取って、系図を作成する。
その系図は、他には見られない珍しい系図(徳川は源氏であったが、その惣領の筋が二つに分かれ、その一つが藤原氏になったというもの)であったという。その系図は吉田兼右から前久に提出された。そして、前久から天皇にも提出される。そうして、ようやく由緒ある者ということになり、松平から徳川への家名変更と従五位下・三河守の叙任が決定されたのであった。
叙任はただ(無料)で為されたものではない。当然、礼物が必要だった。前久には、百貫文を献上したうえで、毎年銭三貫文と馬一疋が献上されるとの約束であった。しかし、百貫文どころか、実際には二十貫文が進上されただけだったという。馬も随時、献呈されたようだが、年が経つにつれて、徐々になくなっていったようだ。
前久としては「騙された」との思いだったかもしれない。万里小路家から古い記録を探し出して、系図を作成することに功績のあった吉田兼右にも馬を献呈することが約束されていたが、彼が生きているあいだには、その約束が果たされることはなかった。家康の胸中には、目的を達成したら、後はチョコチョコ払って、うやむやにしてしまおうという魂胆が最初からあったのであろうか。
家康は念願の官位獲得と、名字(家名)の変更(松平家→徳川家)を成し遂げたのだが「氏」は「藤原氏」となってしまった。これは、藤原氏の代表者(藤氏長者)である近衛前久に、仲介を依頼したこととも関係していようが、かねてより「源氏」を名乗ってきた家康としては、残念であったろう。家康が源氏に「氏」を変えるのは、天正年間まで待たなければならない。
家康が、従五位下・三河守という官位を求めたのは、三河一国の平定が進んでいたこととも関係しよう。三河には、足利一門の吉良家など名族がいた。また、近隣には、清和源氏の流れを汲む今川氏や武田氏も存在した。今後、そうした勢力と対抗していくには、松平家という土豪の立場では限界があった。よって、貴族の身分である「従五位下」と三河一国の国主である「三河守」の称号を求めたのである。
「氏」は藤原氏となってしまったが、「源家」の血を引く徳川の名字を名乗れたことと併せて(若干の不満はあったとしても)家康は、一応の成功を収めたとして、得意だったのではないか。
ちなみに、氏というのは、同一の始祖から発した血族全体の呼称である。源・平・藤原・橘などがそうだ。源氏の一族が、足利という土地に所領を有するようになると、彼らは足利を名乗る。これが「名字」であり、所領の地名に由来することが多い。