NHK大河ドラマ『光る君へ』では、主人公である紫式部(吉高由里子)のライバルとして清少納言(ファーストサマーウイカ)が登場していましたが、紫式部にはもう一人の重要なライバルが存在しました。その人物があかね、つまり和泉式部(泉里香)です。

和泉式部の人気は作品だけでなく、彼女自身の生き方にもあります。紫式部の『源氏物語』は華麗な恋愛物語ですが、あくまでもフィクションです。清少納言の『枕草子』はエッセイであり、恋愛よりも日常の出来事が中心です。その一方、和泉式部の『和泉式部日記』や歌集で綴られる恋は、彼女自身の実体験に基づいています。

彼女の作品はスキャンダラスですが、いやらしさを感じず、官能的でありながらも下品ではありません。その文学的な美しさは、和泉式部の人間性と才能によるものでしょう。多くの恋愛を経験した和泉式部は「悪女」と呼ばれることがありますが、彼女の恋愛はいつも悲劇的な結末を迎えてしまいます。

名家に生まれて高い教養を育んだ“あかね”

和泉式部の生家である大江家は、漢学(中国の古典文学や歴史を学ぶ学問)の博士として朝廷に代々仕えてきた名家でした。和泉式部も幼少期から漢籍を読み、当時の男性貴族に負けないほどの教養を身につけていました。

しかし、今回の『光る君へ』でも描かれていたように、当時、貴族の女性であっても、その教養を生かす道が限られていました。男性は上流階級に限られるものの、学校に入り正規の学問を修め、それを社会的な仕事に活かすことができました。

女性も習字や音楽、和歌、染色技術などを学びましたが、それは家庭教育の一環であり、より良い縁談を結ぶため、貴族の娘たちが身につけるべき「たしなみ」とされていました。

その教養や才能を公に示し、特別な一部の貴族女性以外が立身出世を目指せる場所が、ただ一つありました。それが宮廷の後宮(中宮や皇后の住まい)です。

江戸時代の「大奥」のような場所をイメージすればいいでしょうか。後宮に仕えることができれば、高貴な男性の目に留まるチャンスがあり、成功すれば一族ともに繁栄する可能性がありました。

また後宮での生活を通じて、多くの人々と交流し、華麗な宮廷行事に参加しながらマナーや教養をさらに磨くことができ、和歌や音楽の才能を披露する機会もありました。

和泉式部は由緒正しい大江家の娘として、冷泉天皇の后である昌子内親王の後宮に入ります。ちなみに冷泉天皇とは、本郷奏多さんが演じた花山天皇の父親です。そこで橘道貞という将来有望な官吏と結婚しました。このとき、和泉式部は17歳から20歳と考えられています。

彼女の名前「和泉式部」は、夫が和泉守という役職を持っていたことに由来しています。二人には娘が生まれ、のちに「小式部」と呼ばれることになります。

道貞との夫婦仲はさほど悪くなかったようですが、当時としては珍しくありませんが他にも女性がいたようです。そして和泉式部も、新しい恋に落ちました。彼女も人妻でありながらも、新たな恋愛に心を奪われたのです。

悲劇的な恋愛を経験していく和泉式部

その相手とは、冷泉天皇の御子である為尊(ためたか)親王です。最高の家柄を持ち、若く美しい貴公子でした。二人の恋は周囲の目を気にせず燃え上がり、最終的には和泉式部が夫の橘道貞と離婚する事態にまで発展しました。

しかし、この恋は長くは続きません。尊親王の突然の死によって終わりを迎えたのです。和泉式部にとって、尊親王の死は悲劇の始まりに過ぎませんでした。

為尊親王を失ったあと、和泉式部のもとには数人の男性が訪れました。和泉式部はこれらの男性を拒まずに受け入れています。彼女の心を完全に満たす男性がいなかったため、複数の男性と関係を持つことによって心の空虚さを埋めようとしたのかもしれません。

そしてある日、一人の男性と出会います。なんと為尊親王の弟である帥宮敦道(そちのみやあつみち)親王です。和泉式部は25~26歳、帥宮は23歳くらいだったと予想されます。

帥宮は容姿も教養も兄を上回っており、若さゆえの情熱を抑えることなく、和泉式部に接近しました。二人は特別な恋だと感じていましたが、帥宮が冷泉天皇の皇子であることから、和泉式部は慎重でした。過去の経験から、深く愛するほど自分が傷つくことを知っていたのです。

和泉式部は愛すれば愛するほど、慎重に身を引く態度を見せました。この慎ましやかで神秘的な風情が、帥宮の心をさらに燃え上がらせます。彼女を他の男性に触れさせたくない、自分だけのものにしたい、という強い独占欲を抱いたのです。

ある夜、帥宮は和泉式部を自分の邸宅へ連れ去ります。彼の激しい独占欲と狂おしい愛情表現に、和泉式部が感情を抑えることはできませんでした。

▲和泉式部の歌碑がある貴船神社 写真:マノリ / PIXTA