当時最年少で三冠ヘビー級王座を初戴冠
8月17日、東京・アリーナ立川立飛で全日本プロレスの風向きが変わった。3月30日の大田区総合体育館で安齊勇馬がキャリア1年半、24歳10か月にして史上最年少三冠ヘビー級王者になったことで新世代旋風が巻き起こり若いファンが急増。安齊は期待に応えて5度の防衛に成功してきたが、青柳優馬に敗れて王座を明け渡してしまったのだ。
9か月ぶりに三冠王座に返り咲いた青柳の前に立ったのは、かねてから9月1日の福岡・アイランドシティフォーラムでの三冠挑戦をぶち上げていた宮原健斗。
「全日本プロレスと言えば宮原健斗と青柳優馬だ。新時代と呼ばれる奴らはメチャメチャすげぇけど、俺たちもまだまだ捨てたもんじゃねぇぞ。いいだろう、宮原健斗、俺と勝負だ!」
その青柳の言葉に、宮原は「勘違いするなよ、俺はこの業界のスーパースターだからな。お前と立っている位置が同じか、同じじゃねぇかは9月1日にわかるよ。俺を誰だと思ってんだ!」と言い放った。
その言葉はマイクパフォーマンスではない。「あれは本心ですよ。青柳優馬、新時代と一緒にこの俺をまとめてくれるな、というのが僕の正直なところですよ」と宮原は言う。今、全日本新時代と言われているが、全日本の概念を変え、新時代を切り拓いたのは、宮原だからだ。
最近のファンは、宮原に全日本生え抜きのエースというイメージを持っているかもしれないが、元々は佐々木健介率いる健介オフィス出身。2008年2月にデビューした時、健介が三冠王者だったことから全日本に4試合だけ出場したことがあるが、その後、健介オフィスがプロレスリング・ノアと提携したために、若手時代の5年間のほとんどをNOAHで過ごした。
そんな宮原が全日本に上がるようになったのは、2013年8月いっぱいで健介オフィスを退団した後の9月。当初はフリーとしての参戦だった。
「健介オフィスを辞めようという相談を健介さんと北斗(晶)さんにしている時に、全日本プロレスが分裂して(2013年6月の武藤敬司らの大量離脱騒動)、秋山さんから『健介オフィスとして宮原健斗を出すことはできないか?』というオファーがあったんですよ。僕がフリーになるのと、全日本からのオファーが重なって、縁を感じましたね。
あとは、ずっとNOAHに出てたんで、そのままNOAHに出続ける風景っていうのは何となくイメージできたんですけど、全日本に出ることのイメージがあんまりできなかったんで、逆に面白いのかなと思いました」と、宮原は全日本を選択した理由を語る。
年明け2014年1月1日付で全日本所属になったのは「やっぱり全日本プロレスは小さい頃から観てたんで、そういう意味では憧れがありました」と言う。
潮崎豪、鈴木鼓太郎とのエクシードなるユニットで頭角を現し、2015年秋に潮崎、鼓太郎が相次いで全日本を退団すると、同年暮れにジェイク・リーとネクストリームを結成。翌2016年2月12日の後楽園ホールでゼウスとの王座決定戦に勝って三冠王座初戴冠。のちに記録を安齊に破られてしまったが、当時としては26歳11か月の史上最年少の三冠王者誕生だった。
「健斗コール」で全日本のイメージを一新
宮原が三冠王者になったことで全日本の空気がガラリと変わった。ド派手な入場シーン、試合後のマイクパフォーマンスは、ジャイアント馬場の流れを汲む全日本にはないものだった。宮原はそれまでの慣習をぶち壊し、結果、若いファンを呼び込んだのである。
「今振り返れば、あそこが会社としてのキーポイントだなっていう感じはしますね。当時、全日本プロレスにはネームバリューがある人がいっぱいいたんですけど、それに集客が見合わないというのを感じていたんですよ。
全日本プロレスとしてのカラーがいまいち読みにくいというか、“明るく楽しく激しい”というのもどこか中途半端で、昔の貯金でやっている感じがしたんで、ヘンな言い方になりますけど『おじさん臭いな』っていうイメージをわかりやすく変えたかった。僕は元々、ハルク・ホーガンに憧れていて、入場が華やかなレスラーになりたいというのがあったから、それが根源にあって、ああいう形になったのかな」
いつしか宮原の入場は全日本の新名物となり、健斗コールが沸き起こるようになった。それまでは静かにじっくりと観るのが全日本観客のスタイルだったが、声を出して楽しむようになったのだ。それは宮原が狙っていたものだった。
「今の全日本プロレスって、お客さんと一緒に作っているっていうのもあるし、お客さんが声を出すってところがプロレスの面白さだと僕は思ってるんで。普段の生活では出さない大声を出したりするっていうのが、面白いジャンルだと思いますよ。どんな理由であっても、お客さんが盛り上がっている方がいいと思うんで、今の全日本プロレスのお客さんが声を出すっていう最初のきっかけになったのは、健斗コールじゃないかなと僕は思ってます」
当然、宮原のパフォーマンスを快く思わない昔からのファンもいたが、それは承知の上で「ファンはもちろんですけど、身内にもいましたからね。試合後、あれだけ長いマイクをするっていうのは……多分ですけど、昔の全日本系のレスラーの考えからしたら違うと思うんです。
実際、“チャンピオンなんだから、もっとどっしりしなさい”って言われたんですけどね。どっしりしていてお客さんが入れば、僕もどっしりしてたと思うんですけど、何か変えなきゃいけないなっていうところで、敢えて全日本プロレスらしくないことをするっていうのに行き着いたんだと思います。
もちろん、いい伝統もあるんです。ただ僕のルーツは全日本系とは違うんですよね。健介さんも全日本系じゃないし。そういう部分では、僕はマイクパフォーマンスとかに抵抗はないんで、当時は……今振り返ると、中も外もアレルギーのあった人はいたと思いますね」と苦笑する。