倭王武の上表文は『魏志倭人伝』より重要だ
「倭の五王」からの使いが、中国南朝の「宋」(東晋の次の王朝)にやって来たという記録が、中国の正史の一つである『宋書夷蛮伝・倭国』にあります。とくに、最後の使節となった478年の倭王武は、長文の上表文を提出しており、私は『魏志倭人伝』にある卑弥呼の手紙などより、はるかに重要な文書だと考えています。
なぜなら、第1に邪馬台国の外交は、その後の日本国家には引き継がれていないのに対して、倭の五王の外交は、そののちの遣隋使などにつながるものです。第2に、その内容が形式的なものでなく、現実的な外交的主張だからです。第3に、3世紀のちに編纂された『日本書紀』に書かれている歴史認識とほぼ一致しています。
「わが祖先は、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のほうの海を渡って、平らげること九十五国に及んでいます」としていますが、これは、大和朝廷が畿内発祥で、日本列島において東と西に同じくらいの地域を従え、さらに半島においても広い領土を得たことを意味します。
そして、南朝の皇帝のもとへ定期的に使節を送って挨拶をしてきたが、高句麗が邪魔をするので助けて欲しいと、倭王武は百済、新羅を含む半島南部全体への支配権ないし、宗主権を要求しました。それに対して、南朝では独自の国交を結んでいる百済への支配権を認めませんでしたが、残りについては日本の勢力圏として認めています。
この使節が派遣されたのは、ソウル付近にあった百済を高句麗が攻めて王都を陥落させた直後です。しかし、南朝からは実質的な支援は得られず『日本書紀』によれば、雄略天皇は日本の支配地の一部だった忠清南道公州(熊津)付近を割譲して百済を再建させ、あまり役に立たない南朝への使節派遣は二度としませんでした。
倭の五王の使節派遣と上表文は、日本の半島支配を裏付けるものなので、中国の史書が普段は大好きな媚中・媚韓派の歴史学者にも嫌われているのです。
逆に保守派の人たちからは、中国にへりくだった態度だと受け取られています。これは、上表文を現代語訳にするについて、歴史学者がした極端に謙譲なニュアンスを意図的に加えた文章が出回っているので、誤解を与えているのです。
原文のニュアンスは正々堂々としたものなので、せっかく日本の半島支配を裏付ける文書なのに左からも右からも嫌われているのは残念です。
※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。