応神・継体は新王朝である可能性はない

人気作家の百田尚樹さんが書いた『日本国紀』は大ベストセラーになりました。太平洋戦争などについては、保守派の論客らしい独特の歴史観が炸裂していますが、不思議なことに皇室が実質的な万世一系であることを否定されているのは意外でした。

断定はされていませんが、応神天皇は熊襲の王でないかとか、継体天皇も十中八九それまでの天皇家を倒した新王朝だろうと書いておられます。ただし「万世一系を否定」しているわけでないともされていますが、普通は応神天皇や継体天皇が新王朝ということが万世一系否定なのです。それに対して、私は万世一系に疑いはないという立場です。

▲応神天皇(河内国誉田八幡宮:蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

雄略天皇から4代あとの武烈天皇に子もなく、近親者に適当な皇子もおらず、応神天皇の5世の孫で、近江生まれ越前育ちの継体天皇が即位しました。最初に候補とされたのは、応神天皇の兄の子孫で丹波にあった倭彦王でしたが、迎えのために差し向けられた軍勢を見て逃げ出してしまったので、継体にお鉢が回ってきたと『日本書紀』にあります。

つまり、古代人は応神天皇の子孫であることに格別の意味を認めていなかったということがわかります。もし、応神天皇が新王朝を開いたのならありえないことです。

そして、継体天皇が実力で新王朝を開いたというなら、偉大な英雄として描かれていたはずです。ところが、継体天皇は朝廷の実力者である大伴金村の勧めで皇位継承を引き受けたものの、大和にいきなり入ることもできず、枚方の樟葉(くずは)で即位し、その周辺に20年も留まり、外交での失敗も多かった冴えない王者としてしか書かれていません。

20年も山城・河内方面に留まったことをもって、対立王朝があったのではないかという人もいますが、仁賢天皇の皇女と結婚し欽明天皇も生まれていますから、大和を勢力下には置いていたことは明らかで、単にテロの危険を避けただけでしょう。

遠縁しかいなかったのは、雄略天皇がライバルを殺しすぎたからで、顕宗・仁賢天皇も播磨にあったのを連れてきたわけです。女系で言えば、雄略天皇の母は継体天皇の曾祖父の姉妹であって、かなりメジャーな皇族だったのですから、遠方にいて高齢だったといっても、やっと探し出したというわけでなく、むしろ順当な候補者だったといえます。

しかも『日本書紀』のもとになった『帝紀』などが成立したときの天皇は、継体天皇の孫である推古天皇です。人々の記憶もまだ生々しく、お祖父さんが北陸からやってきて征服王朝を樹立したのなら、内外で周知の事実で嘘など書けなかったはずです。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。