弥生人や稲作の故郷は朝鮮半島ではない

日本列島と大陸の交流について、歴史地図では華北から朝鮮半島を南下する北路、江南地方(長江流域)から九州への南路、南西諸島から九州への南島路という線の引き方をします。しかし、私は中国の江南地方から山東半島を経由し、韓国の沿岸を南下して九州に至る「朝鮮半島沿岸素通りルート(呉唐路)」がメインルートだと提唱しています。

遣唐使は中期以降、新羅に妨害されて五島列島と江南地方を直行していました。しかし成功率は半分くらいで、空海は福建省に漂着し、鑑真は沖縄に流れ着きました。途中で風向きが変わり直行できないのです。

ましてや、弥生時代の航海術では無理です。『魏志倭人伝』によれば魏の使節は、ソウル北方の帯方郡から、未開地域だった半島南部の内陸を避けて半島沿岸を船で南下し、釜山付近から日本に渡っています。始皇帝の命で日本をめざした徐福も、山東半島の琅邪(ロウヤ、青島の西)から船出しています。

▲遣唐使船(貨幣博物館:蔵) 出典:ウィキメディア・コモンズ

稲作にしても、最初に伝わったのは北方系かもしれませんが、弥生時代の日本で広まったコメは中国の江南地方の品種で、朝鮮半島には見られない品種です。コメも弥生人も朝鮮半島沿岸を経由していても、日本の東北地方と同じ緯度で寒冷な朝鮮半島で定着することなく、容易に渡れる対馬海峡を渡って九州に来たと考えるほうが自然です。

温暖で水も豊富、人口も多くない島があり、江南地方に近い気候だという噂は、交易に携わる人たちを通じて広まっていたはずです。

古代中国では、日本人は呉の太伯の子孫だと理解されていました。太伯は周王室の一族で江南地方に移って建国した人です。当時の人々(中国人)が倭人(日本人)の風俗や風貌を見て、江南地方の人々に似ていると感じたことの価値は高いと思います。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。