聖徳太子は天智・天武の祖父の仇敵

「聖徳太子架空説」とは『日本書紀』などでの聖徳太子の事跡は、誇張されているに留まらず「厩戸王の事蹟のうち、冠位十二階と遣隋使以外は虚構」という学説です。

実在した人物の呼び方が生前からのものでないとか、業績に誇張があることをもって「架空」と表現するのは飛躍で、低級な受け狙いのプロパガンダです。しかし、聖徳太子の功績は蘇我馬子のものなのに、蘇我氏を倒した天智・天武天皇系の天皇や藤原氏にとって、馬子は不愉快な存在だから聖徳太子の功績にしたという人は多くいます。

私はまったく誇張がないわけではないにせよ、多くの有名人にありがちな程度で、聖徳太子が傑出した政治家であったのは間違いないと考えています。というのは、聖徳太子は天智・天武天皇の祖父である押坂彦人大兄皇子にとって、不倶戴天の仇敵だったからです。

蘇我馬子の業績を否定するために聖徳太子を創り出したり、業績を誇張したりする動機などまったくありえず、太子の名声が高かった以外には考えられません。

▲聖徳太子の銅像 出典:PIXTA

欽明天皇の子どもたちのうち、敏達・用明・崇峻がまず天皇になりました。敏達以外の母親は蘇我氏出身です。次に、欽明天皇の孫世代では、敏達天皇の嫡子である押坂彦人大兄皇子が最有力で、用明天皇の子の聖徳太子は若すぎました。

歴代天皇の即位年齢を調べると、持統天皇が孫の文武天皇を15歳で即位させるまでは、30歳以前の即位は、ほかに近親者がいなかった武烈天皇を除いて、なかったことがわかりました。

そこで、蘇我馬子は欽明天皇の皇女で蘇我氏出身の母をもち、敏達天皇の皇后だった推古天皇を即位させ、聖徳太子に引き継がせるつもりだったようです。ところが、推古天皇が長生きしすぎて、押坂彦人大兄皇子や聖徳太子、それに敏達天皇と推古天皇の子の竹田皇子までが先に死んでしまいました。

推古天皇が死んだときに、聖徳太子の子で蘇我氏と血縁関係が濃い山背大兄王が候補でしたが性格に問題もあり、蘇我馬子の子の蝦夷は、押坂彦人大兄皇子の子である舒明天皇を即位させました。これは蘇我氏出身の妃の子である古人大兄皇子へつなぐ意図もありました。

そして山背大兄王は滅ぼされ、古人大兄皇子はなお若すぎたので、皇后で天智・天武の母である皇極天皇を中継ぎにしました。しかし皇極天皇にとっては、継子である古人大兄皇子への継承は嫌ですし、のちの天智天皇である中大兄皇子にとっては、命の危険に結びつきますから、危機感からこれを阻止するために起こしたのが、入鹿暗殺だと見るべきです。

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。