新羅が中国の属国になったのは648年

▲新羅の国章 出典:ウィキメディア・コモンズ

李氏朝鮮は、明や清の従属国でした。もちろん、古くから半島国家は中国に朝貢してましたが、それは日本が遣唐使を派遣していたのとよく似たものです。ところが648年を境に関係が変化しました。

高句麗は隋の煬帝の攻撃を打ち負かし、唐の太宗の派兵も退けました。優位に立った高句麗は、日本や百済とも協力して新羅を攻めました。

新羅では、韓流ドラマで有名な善徳女王が即位し、補佐したのが金春秋(のちの武王)でした。金春秋は、日本・唐・高句麗を歴訪し、648年に唐の属国となる選択をしました。唐の衣冠礼服を受け入れ、独自の年号から代えて唐の年号を用い、姓も中国風の一文字に変えていきました。

唐は新羅に援軍を出させて、百済(660年)と高句麗(668年)を併合しました。しかも、唐は新羅も併合し羈縻(きび)州(自治領)とし、新羅王を鶏林州大都督に格下げしました。

さすがに新羅も我慢できず、670年から唐と戦い、日本にも朝貢使節を出し「任那の調」という貢ぎ物を持ってきました。しかし、唐と渤海の戦いに新羅が加勢したので、唐は大同江以南を新羅領として735年に認めました。これが三国統一です。

新羅による半島統一を、当時の日本の立場から説明すれば「日本が固有の領土の一部と認識していた任那を侵略併合し、友好国百済を唐が侵略することを援護射撃し、その旧領を横領した」のですし、百済の支配層の多くは日本人になりました。

韓国は百済の継承国家とはいえません。百済と新羅では言語も似てなかったようで、朝鮮民族は新羅による百済・高句麗侵略の結果として登場したものなのです。

ただし最近では、その渤海もコリアン国家なので、南北国時代であり、高麗による統一をもって民族統一だと、これまで千年以上のあいだ一度も思いつかなかった歴史観が採用されていますが、思いつきでこうも変わるのは世界的にも珍しいことです。

▲朝鮮・韓国史年表 (『歴史の定説100の嘘と誤解』より)

※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。