元寇ではなく元・高麗寇と呼ぶべきだ
元寇に高麗軍も加わっていたことは、以前よりは一般の日本人に知られるようになりましたが、単に参加していたのでなく、むしろ主力でしたし、高麗が元をけしかけたということもあったのです。
バカな日本人で、高麗が元に抵抗したので元の襲来は遅れて準備もできたのだから感謝すべきだという人がいますが、一緒に攻めてきたのですからそれはないでしょう。私は、「元・高麗寇」と教科書でも書くべきだと主張しています。
もちろん、高麗がモンゴルの支配を進んで受けたわけではありません。国王は、国土と人民をモンゴルの収奪にまかす一方、大草原出身の元が海は苦手だろうというので、開京(開城)から江華島に逃げ込んで時間を稼いだりもしました。
また、降伏ののちも「三別抄の乱」という局所的な抵抗もありました。しかし、日本のためにやっていたのではありません。その一方、フビライの宮廷にいた忠烈王という高麗の世子(せいし)は、モンゴルに日本攻撃をけしかけたのです。
元と高麗の関係は、歴代の中韓の関係と少し違い、高麗の世子は元の宮廷に人質として暮らし、王になるとモンゴル人の皇女を王妃にして戻ってきました。また、多くの美女を元の宮廷に送らされましたが、そのなかに皇后(奇皇后)になった者もいます。
文永の役と弘安の役が大失敗に終わったのち、フビライは3度目の遠征を計画し、忠烈王も全面協力するからとけしかけましたが、ベトナムで手こずったりしていたので、実行されませんでした。
一方、大虐殺にあって荒れ果てた対馬や九州の人たちが食料を求めたり、拉致された家族を探して半島に渡りました。これが倭寇の始まりですが、侵略の報いですから何も悪いことではありません。
古代は別にして、中世以降の日本とコリアン国家の関係のはじまりは、元・高麗寇というコリアン国家による日本侵略である、ということを日本人はしっかり覚えておくべきです。野党系の政治家で「韓国は日本に小石ひとつ投げてきたことすらない」などと放言している人がいますが、とんでもない間違いです。
そして、日本が元寇を撃退して倭寇で中国を苦しめた国であるという記憶は、日本の安全の確保にどれだけ貢献したか計り知れないのです。
※本記事は、八幡和郎:著『歴史の定説100の嘘と誤解 世界と日本の常識に挑む』(扶桑社:刊)より一部を抜粋編集したものです。