プログレッシヴ・ロック全盛期の思い出を熱く、マニアックに語り、おもに中高年の男性の間で「懐かしい」と話題になっている新刊『1970年代のプログレ ―5大バンドの素晴らしき世界―』。著者である馬庭教二氏が「5大バンド以外で忘れられない作品」と関係する、私たちのバンド活動の思い出を記してみよう。

日本人が日本語で作るプログレ

1973年に始まった私たちのプログレ熱、音楽熱の行先は、ありきたりだが結局のところアマチュアバンドの結成となった。

「プログレはなぜこんなにかっこいいんだろう、なぜ人を感動させるんだろう」と中学生なりに考え、やがて「ただ聴いているだけではわからない、自分たちも演奏してみようではないか。そしていつの日にか自分たちのプログレを作ろう」。このような筋道で進んでいったのである。

早くもこの年1973年の年末には、仲間内数人で担当パートを決めバンド活動を始めていた。最初にコピーしたのは、クリームの名曲「サンシャイン・ラブ」だったと記憶する。

翌1974年春、私たちプログレファンの話題を独占していたのは「四人囃子」という日本のバンドだった。新作の広告が「ミュージック・ライフ」などの音楽誌を賑わせており、そこには「日本初のプログレバンド登場!」と謳ってあったのだ。

広告によると、そのアルバム『一触即発』は全5曲。A面に3曲、B面には13分近いアルバムの主題となる大作ともう1曲という、いかにもプログレらしい構成で、そこがまた私たちの期待感を煽っていた。当時、日本のポピュラー音楽で10分を超える長篇は珍しかったのではないだろうか。

発売後、さっそく入手して聴いた「一触即発」は、ハードロックといっていい爽快なノリとプログレらしい曲作り(組曲構成、複雑な拍子、シンセサイザーの使用など)を合体した曲で、私たちはかつてない興奮を覚えた。

それは、こういう音楽を我々と同じ日本人が作り、演奏しているという事実の重みだった。正直言って意味不明の、初めて聴く「プログレ的な」歌詞を持つ日本語のロックでもあった。そうしていつしか、四人囃子は私たちがチャレンジすべき目標のバンドとなっていったのである。

「イエスをコピーする」など空想の世界

当時の我々、つまり初めて楽器を手にしてから1年とか2年とかいう私たちには、イエスをコピーをする、キング・クリムゾンの曲を演奏するということは、どこか空想の世界のようだった。一言で言って、難しいからである。

ギター、ベース、ドラム、キーボード、どのパートをとっても相当な基礎訓練をして、一定程度のテクニックを身につけないと、まずコピーもできないし、曲として成立しないのだ。

仮に自分のパートをそれなりにコピーできても(完全コピー、完コピには程遠い)、皆で集まって合わせると、それはそれで悲惨なことになることは十分予想される。

さらにボーカルである。まずキーが高く、同時に声が渋い。おまけに英語だ。そして、コーラスという壁も立ちふさがる。特にイエスの場合は、各楽器のパートも難しいが、相当に手の込んだ難しい演奏しながらの2声3声のコーラスワークが、アマチュアコピーバンドの前に立ちふさがる高い壁だったと言えるだろう。

自分たちの技量のほどは自分たちが一番知っている。だから練習用の曲、あるいは学園祭などで披露する曲を選ぶ際、次は「危機」をやろうぜとか「21世紀の精神異常者」をやってみようかなどとは、とても口に出せなかったとのだ。

しかし、四人囃子は違った。まったく今となってはバカバカしい話だが、要は同じ日本人だから、歌詞が日本語だからという理由だけだった。でも彼らのコピーバンドは同じ学校にもいたし、このころの日本中に何百と存在したと思う。

翌1975年に高校生となった私たちは、無謀にも「一触即発」を人前で演奏した。結果は見るも無残な出来だった。演奏しながら「これは辛い……」と自覚するレベルだったのだ。こうして私たちは改めて、その下手さ加減に気付くこととなり、コンサート直後、初めて作ったバンドは解体してしまった。したがって「一触即発」は、数あるプログレでも、切なくほろ苦い記憶を持つ作品である。

なお、四人囃子は、2010年8月22日「第1回プログレッシブ・ロック・フェス」(日比谷野外音楽堂)に登場、名曲「一触即発」を演奏するなど、日本のプログレのパイオニアとして現在に至るまで活躍を続けている。

最後に。「イエスやキング・クリムゾンは演奏できないが、クリームなら大丈夫」というはずがない。せいぜい「最後まで演奏して曲を終えられる」という程度だった。私たちの「サンシャイン・ラブ」を聴いていた方々は、さぞや苦痛だったろう。