幼少期における秀吉のあゆみ

藤吉郎が生まれたのは天文5年(1536年)1月1日で、幼名は「日吉丸」と『絵本太閤記』にも書かれており、広く信じられてまいりました。朝廷の作成した『公卿補任』という資料には誕生日は書いておりませんが、そこに書いてある年齢からすれば、やはりその年の生まれということになるそうでございます。

しかし本当は、天文6年(1537年)の2月6日と聞いております。といっても、昔は誕生日を祝うという習慣もなく、よくわかりません。幼名も聞いたことがございません。藤吉郎にとって、あまりいい記憶ではないからか、話題にするのを嫌っておりました。

藤吉郎は10歳を過ぎる頃まで、母と継父のもとにおりましたが、やがて流浪の旅に出て、現在ですと浜松駅の南口から東に2キロ足らずのところにある、遠江の頭陀寺の領主だった松下加兵衛之綱〔まつしたかへえゆきつな〕さまに仕えます。

▲頭陀寺 出典:PIXTA

故郷を出る前に、一時期、名古屋市中村区の第一日赤病院の近くにある、光明寺という浄土宗のお寺に預けられていたこともあるようでございます。この時代に読み書きを習うとしたら寺院くらいでしかできませんから、勉強しろという趣旨もあったのでございましょう。

しかし、やんちゃだったのであまり長続きせず、豊かな農家に奉公にいって薪を割ったりしていたようでございます。

少しお金が貯まると、針など仕入れて行商に出たりもしたようです。この時代には、モノの値段が地域によってまちまちでしたから、気が利いて勤勉なら、それなりの儲けは手にできたのでございます。

もちろん、江戸時代のような身分の固定はございませんから、百姓でいろんな商売に手を出して、近国へ出かける者も珍しくございません。義母の「なか(大政所)」の実家は、鍛冶の町である美濃の関にルーツがあると聞いておりますが、針のような金属製品の商いは、秀吉にとってなじみのあるものでございました。

松下加兵衛さまは藤吉郎と同い年ですから、父親の長則さまのもとで、若君である加兵衛さまの従者のようなことをしていたようです。この松下家というのは、遠江の有力氏族のひとつで、彦根藩主となった井伊家とも縁が深こうございます。

▲『新撰太閤記』木下藤吉郎と松下加兵衛の錦絵 出典:ウィキメディア・コモンズ

遠江は今川氏と斯波氏が守護の座をめぐって、長く争ってきたところでございます。それぞれに、土豪たちがつき、それぞれの一門のなかでも2つに分かれておりました。それが、この頃には今川の勝利に終わり、義元さまは甲斐の武田信玄さま、小田原の北条氏康さまと「甲相駿三国同盟」を結んでおられました。

尾張では、東海一の実力者だった織田信秀さまが亡くなられたのち、跡取りの信長さまは家内をまとめるのに苦労され、三河の松平竹千代ぎみは、駿府で人質生活でございました。

NHK大河ドラマ 『おんな城主 直虎』の主人公である、直虎の正確な生まれた年は不明でございますが、彦根藩祖・井伊直政の父親で許嫁だったといわれる井伊直親は、藤吉郎より2歳年上ですから、同年代か少し下くらいだったでしょう。

駿府の町では京風の文化が栄え、駿河や遠江では商工業も盛んだったことは、大河ドラマでも描かれとおりでございます。諸国から商人などが集まっておりましたから、藤吉郎がこの地にやって来たのも自然なことでございました。

遠江の土豪としては、井伊氏とその一族である中野・奥山氏のほか、飯尾氏(曳馬)、大沢氏(堀江)、浜名氏(浜名)、松下氏(頭陀寺)、そして近藤・菅沼・鈴木氏という井伊谷三人衆などが主だったところでした。