信長の言いたいことを先取りして意見する秀吉

それでは、藤吉郎が信長さまに認められるようになったのは、どんなところが気に入られたかと言うことでございますが、どんな仕事でもそれまでのやり方に囚われずに、最高の仕事をしようという前向きな姿勢と、信長さまに差し出がましくも遠慮なくものをいい、しかも、それが本当は信長さまが言いたいことを先取りしたものだったからだと思います。

皆様がご存じのような藤吉郎の若い頃のエピソードのいくつかは、小瀬甫庵(おぜほあん)が、大坂夏の陣の12年後、私が死んで3年後の寛永三年(1627年)に書いてベストセラーになった『甫庵太閤記』がもとになっております。

小瀬甫庵という人は、尾張出身の医師で豊臣秀次や堀尾吉晴の家臣だったこともあり、のちに、加賀藩に仕えました。ほかの方の書いたものも、この甫庵の『太閤記』に随分と影響されているように思うのでございます。いってみれば、坂本龍馬とかいう方のイメージとかエピソードが、司馬遼太郎さんの『竜馬が行く』という小説で書いたことが、史実のように誤解されているようなものでございます。

草履取りをして冬の寒い日に背中に入れて温めたというのは、さらにのちの時代の創作でございますが、毎朝、信長さまが気まぐれに「誰かあるか」と叫んだら必ず藤吉郎がいた、とかいった話なら甫庵のものにも書かれております。

こうして信長さまから、そこそこの信頼を獲得した藤吉郎は、戦場での働きの前に、普請であるとか物資の管理のような仕事で、手腕を発揮することになったのでございます。

「清洲城の壊れた塀の工事がなかなか終わらない」と藤吉郎が批判していると聞いた信長さまが、藤吉郎にやらせてみたら、区画ごとに担当を決めて競争させる「割普請(わりぶしん)」という知恵を使って、たちまち完成させたという話は有名でございます。

▲清州城 出典:PIXTA

また、薪奉行を任せた際は、使う量を三分の一にして、さらに商人から買うばかりでなく、領内の村々からも物納させるようにして節約したといいます。

あるいは、美濃攻略のために清洲から小牧に城を移すべきだと進言して、信長さまは本拠地移転を実行されることになったそうでございます。

こうした個々のお話が、どこまで本当か自信がありませんが、藤吉郎のどういうところが信長さまに気に入られたかのイメージはつかめると思います。

しかし、奉行としての仕事に満足する藤吉郎ではございません。やはり出世するなら武将として成功したい、というのが戦国の世の男たちの気持ちでございました。そこで、勝手に旗指物をつくって、信長さまが尾張統一のために一族を攻められていた小競り合いに自主参加したりして、アピールしておりました。

ただ、模擬合戦で一方の大将に指名されて勝利を収め、経験がないのに孫子の兵法を会得していると誉められ、いよいよ武将として活躍の場を与えられることになったと甫庵は書いておりますが、私は聞いたことはございません。

藤吉郎は、信長さまから「差し出がましい」とよく叱られたのですが、自分の才知を恃(たの)んで、おかしいと思ったら口に出さないと気が済まない人でございます。そのために、子どものころから騒ぎを起こし、仲間や上司から疎まれて追い出されることも多く、遠江の松下家でも長くは置いてもらえませんでした。

ところが、信長さまは当たり障りのない仕事には満足されない殿様でございましたから、藤吉郎の普通の人にとっては困った“性格”を評価してくださったわけで、まことに藤吉郎は、良い殿様に仕えることができたと申せましょう。

今日はこのあたりで失礼いたします。ごめんくださいませ。

※ 太閤記としてはこのほかに、柳川藩主田中吉政の家臣・川角三郎右衛門の『川角太閤記』があって、主に山崎の戦い以降を扱っているが、比較的に史実に近いとされる。『絵本太閤記』(武内確斎:著・岡田玉山:画。1797年~1802年)は大ベストセラーになった。『真書太閤記』(栗原柳庵:編、安永年間1772年~1781年)は、勧善懲悪などの価値観が入りすぎだが、軍記物、人形浄瑠璃や歌舞伎における太閤物の原典。『天正記』は秀吉が大村由己に命じて著させたもので、播磨制圧以降の戦いについての秀吉の自慢話。『豊鑑』は竹中半兵衛の子の重門が記したものだが間違いが多い。

※ 観音寺山城は近江南部の守護・六角氏の本拠。繖山(きぬがさやま、標高432m)の山上にあった。山上には西国三十三番札所の天台宗・観音正寺もある。また、尾根のひとつには天台宗・桑実寺があるが、足利義晴が将軍だった1532年には、室町幕府が一時ここに移転していたことがある。