保元の乱は男たちの痴情のもつれが原因!?
鳥羽法皇は、白河法皇の崩御後に実権を握り院政を敷きました。
そして、自分が「叔父子」と忌み嫌う崇徳天皇を退位させ、皇位も崇徳上皇の子の重仁親王ではなく、腹違いの弟の躰仁(なりひと)親王に渡します、第76代近衛天皇です。そして、近衛天皇の生母である美福門院得子と、鳥羽法皇の男色相手の藤原家成とは、いとこ関係にあります。
さらに、その近衛天皇がわずか17歳で崩御されると、得子に他に男子がいなかったため、鳥羽法皇は仕方なく崇徳上皇の同腹の弟の第77代後白河天皇(在位1155~1158)を即位させます。後白河天皇は崇徳上皇と同母でも、確実に鳥羽法皇の子どもです。
そして後白河天皇を中継ぎに、皇位継承は後白河天皇の子の守仁(もりひと)親王に決められます、後の第78代二条天皇です。つまり、とことん崇徳上皇は除者(のけもの)にされました。
そんな経緯があって、1156年に鳥羽法皇が崩御されると、わずか1週間足らずで崇徳上皇は後白河天皇に対して挙兵しました、これを保元の乱と言います。
鳥羽法皇の後継者として親政を行おうとした後白河天皇に対し、治天の君の地位を奪おうと崇徳上皇が挙兵しました。鳥羽法皇と対立していた頼長は当然のごとく、崇徳上皇についています。
崇徳上皇と頼長の味方になったのは、鳥羽法皇に不満を持っていた平忠正(たいらのただまさ)と源為義(みなもとのためよし)なのですが、為義の子の義賢(よしたか)は頼長の男色相手の一人です。それに対して、後白河天皇についたのが頼長の兄の藤原忠通、為義の子で源氏長者の源義朝(よしとも)、そして忠正の甥おいで平氏長者の平清盛らです。「男色ネットワーク」が、そのまま派閥抗争の構図です。
乱の結果ですが、崇徳上皇と頼長はあっさり敗れ去り、崇徳上皇は讃岐(さぬき/香川県)に流罪、頼長は敗死、為義と忠正は義朝と清盛によって斬首されました。
※本記事は、山口志穂:著『オカマの日本史』(ビジネス社:刊)より一部を抜粋編集したものです。