つい先日も、香港の大規模デモを主催してきた民主派団体が解散した、というニュースが流れました。香港国家安全維持法(国安法)のもとで活動を続けるのは難しく、民主派勢力の瓦解が加速しています。「報道の自由」が死んでいると言われる背景には、今年の6月に廃刊した、ある新聞が影響していると言われます。そのあたりの背景について、ジャーナリストの福島香織氏に話を聞きました。
※本記事は、福島香織:著『ウイグル・香港を殺すもの - ジェノサイド国家中国』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
香港の「報道の自由」が死んだ日
2021年6月に入り、とても残念で悲しいニュースが世界を駆け巡りました。かつて「報道天国」と呼ばれた香港で、一時代を築いたメディア『蘋果日報』が6月24日付の紙面をもって、その26年の歴史に終止符を打ったのです。それは香港の報道の自由の“死”を意味します。
香港で特派員生活のスタートを切った私としては、なんともつらく悲しい弔いの気持ちで、この原稿を書いています。私が新聞記者として香港支局長を務めた2001年当時には、まさか香港でここまでのメディア弾圧が起きるなんて、そして、あの『蘋果日報』がこういうかたちで消えていくなんて、夢にも思いませんでした。
経営に問題があったわけではありません。不祥事を起こしたわけでもありません。『蘋果日報』はまぎれもなく、香港市民から最も愛され続けた新聞でした。しかし、中国共産党による資産凍結によって運営が続けられなくなったのです。
香港は、2020年6月の香港国安法施行で法治が死に、2021年3月の全人代で香港選挙制度が一方的に「改正」されて民主化への希望が死に、そして2021年6月の『蘋果日報』の停刊によって報道の自由が死にました。
香港にとどめを刺したのは、この『蘋果日報』の死に象徴される“報道の自由の死”だと思います。報道の自由の死は、すなわち“言論の自由の死”であり、失われた法治や民主を取り戻すために声を上げ続ける手段を失ったことと同意です。
ここで『蘋果日報』をよく知らないという人のために、なぜそれが香港にとって“特別”だったのかを説明しておきます。創業者は黎智英(ジミー・ライ)という実業家です。
1948年、広東省に生まれた彼は、12歳のときに単身で香港に密航し、当初は不法移民という不安定な身分で肉体労働に従事しました。そして、コツコツと貯めたお金を株で増やして起業し「ジョルダーノ」というアパレルブランドを立ち上げます。
黎智英の知名度が一気に上がったのは、1989年の天安門事件のときです。当時、彼は反共の立場を明確にして、共産党を批判する怒りのメッセージをプリントしたTシャツを販売しました。すると、それがたちまち香港市民の支持を集めて大ヒットします。
このときに稼いだ資金をもとに、黎智英はメディア界に進出し、1990年に今のネクスト・デジタル(『蘋果日報』を発行する香港の大手メディアグループ)の前身となる「壹伝媒」を創業しました。そして、香港が中国に返還される前の1995年6月20日に『蘋果日報』を創刊したのです。