頑固一徹な昭和の親父との思い出
この芸能界という戦場で売れるのは、ほんのひと握りだ。豊かな才能を持ち、それがすぐに花開く者もいれば、何十年やっても売れない芸人や役者、ミュージシャンがいる。彼らのほとんどは志半ばにして辞めていく。
厳しい世界だ。そして俺も、その壁にぶつかってもがき苦しんでいるのだが、芸能界を目指すことになるまでの俺の生い立ちから話したい。
今から45年前の1975年11月20日に、後のTAIGAは産声をあげた。可愛らしい男の子だったと聞いている。3歳になると妹ができ、父、母、妹と俺の4人家族になった。
小学校1年の終わりまで、東京都の世田谷区のマンションで育った。父親は材木屋で働いていた。物心ついたときには、母親もパートに出ていたので共働き、まぁごく普通の中流家庭だったと思う。
小さい頃からとても活発な子どもで、体を動かすことが大好き。マンションの8階に住んでいたが、部屋の中でも飛んだり跳ねたりして、下の階の住人から何度も苦情を受けたのを覚えている。
やさしい母親とは対照的に、父親は厳格で、常にとても怖い存在だった。
夕食は家族4人で食卓を囲んで食べるのが我が家のルールだった。あるとき、苦手なホウレン草が食べられなかったら、食べ終わるまでごちそうさまをさせてもらなかった。結局1時間が経って、ようやく食べ終わったが、父親はその様子をじっと見ていた。
幼稚園になると、日曜日には駒沢公園に連れて行かれ、自転車の練習をさせられた。
何度も転んで泣きべそをかいても「もう一回」「もう一回」と繰り返し練習させられ、気がついたら、あっという間に自転車を乗りこなせるようになっていた。
夏はいつも憂鬱だった。成城学園のプールに連れて行かれ、足のつかない深いプールに落とされるからだ。ほとんど泳げない俺は、焦って手足をバタバタさせる。だが、プールサイドにいる親父は「自分で泳いで上がってこい」という。今の時代だったら虐待と言われてもおかしくないだろう。
よく叱られ、よく殴られた。とにかく厳しい父親だった。何かにつけ父親の顔色は伺っていたように思う。家では母親に甘えていた。
5歳の頃の話だ。ある日、母親と妹と下北沢に買い物に行ったのだが、途中で俺だけはぐれてしまい迷子になってしまった。
母親は顔面蒼白になって俺を探しまわったらしい。駅前の交番に子どもが保護されてると聞き慌てて向かうと、そこにいたのは、交番の机の上に乗り、得意げに仮面ライダーのポーズをしてお巡りさんを笑わせている俺だった。
俺が泣きながら保護されてるんじゃないかと、とても心配していたから、母親はずいぶん拍子抜けしたらしい。この時のことはなんとなく覚えていて「楽しかったのに、もう迎えに来ちゃったのか」とガッカリしたような気持ちになったんだ。